第8話「燻」
いきなり足元がわきたった。椋鳥が飛び立ったのだ。
「またここだったのね」背後から葉佳の声。
朱有は立ち上がり、「うん」頷きながら、尻や足の草を払った。そうして来た道を戻る彼女についていく。
目が覚めると、彼女の姿はすでにないのが日常だった。
その姿を探すうちに、この場所を見つけたのだ。ここでぼんやりしていると、日が昇りきる前に彼女が迎えに来る。
彼女について堂に戻ると、いつものように朱有の着替えが干されていて、堂内が磨き上げられ、食事の支度がされていた。
きっと彼女は、早朝に村へ下り、どこかで食料や衣などを失敬してきているのだろう――生きるためには仕方ない。
今さら村に出入りできない自分に替わって、なにくれと調達してくれる葉佳には本当に感謝している。
「感謝」
苦い笑みが口元に浮かぶ。
こんなことを思うようになったのか――父に聞かされた伯夷・叔斉の逸話に、深い感銘を受けていた自分が。
しかし、そういうことなのだ。
「不食周粟」を掲げて忠義を貫いた兄弟は結局餓死した。それは、彼らが憎んだ連中にしてみれば、何と都合のいい結果なのか。
古代の聖人と違って、自分は立派な人間ではない。だから何一つ過ちを犯していないとは言わない。だが正しい行いを心がけた自分が殺されかけたあげく追われた家に、一族だけでなく村の厄介者だった伯父が堂々と暮らしている。村の人々に畏怖されながら。
分を弁えて慎ましく生きてきただろう葉佳も、故郷から遠く離れたこんな山中でたった一人、怯えながら暮らしている。
しかし彼女の身内は「清々した」とばかりに日々を送っているのだろう。
人のことを考え、正しく生きてきたはずの人間が、我欲のまま生きる連中に虐げられ、搾取されている。
こうまでされて、どうして清く正しく居る必要があるのだろうか?
天道是非とはよく言ったものだ。ならば――天が非を咎めぬならば、僕がそれを咎めて何が悪い。人を貶めた輩に、同じ事をし返すことの何が悪いのだ。
悪人の言うなりだけでは、正しい人間はこの世から消えるしかない。
「さあ召し上がれ。たいしたものがなくて、申し訳ないのだけれど」
そう葉佳が差し出したのは、半分ほど粥が注がれている縁の欠けた器だ。恐らく行路神に供えられた硬い握り飯を煮たもの。それに山菜が入れられている。あとは果実だ。
「そんなことないよ。じゃあ、いただきます」
がっつきたい思いを抑えて、ゆっくりと粥をすする。その方が腹にたまるからだ。葉佳がそのさまを見守っている。
一緒に食べないの? 何度も訊いた。
そのたび彼女は、味見しがてら食べた、だの、一緒に食べるのが恥ずかしいだのと言うものだから、もう訊かないことにした。
その容姿を見る限り、損なわれているところはない。まさか何も食べずにいるわけもないだろう。
決して多くはない食事が、日に一度か二度。この状況で、食べられるだけありがたいというもの。だが、大小さまざまな器に、零れんばかりに盛られていたかつての食事が懐かしい。今は、あの伯父達がそれを貪っているのかと思うと、いっそう憎しみがわく。臥薪嘗胆とはまさにこういうことだ。
だがいつまで、こんな日が続くのだろう……。
「もうじきよ」
彼の心の声が聞こえたのか、水を差し出しながら彼女がにっこりそんなことを言った。
どきりとしたが平静を装い、「うん」と曖昧に頷いた。
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