無重力空域探訪
前河涼介
無重力空域訪問
地球から見て天の川のほとんど対岸といっていい。銀河系の辺縁に極めて近接した二つの恒星が浮かんでいた。名前をトールメルとアギスウルムといい、後者の方がわずかに大きく、放つ光も赤みが強かったが、それも有意な差とはいえなかった。二つの恒星はそれぞれに星系を持ち、互いの軌道に影響を与え合わないぎりぎりの距離を保っていた。
影響、と強いて言うならリエーレの存在だ。
かつてトールメルとアギスウルムはそれぞれの公転軌道の一点を接する惑星を一つずつ有していた。それら惑星の公転面は銀河水平面に対してほぼ平行であり、公転方向も揃っていた。だがそれは推測であり、人類が二つの星系を観測できるようになる頃にはこの二つの惑星はすでに消滅していた。
ある時二つの惑星は正面衝突を起こした。
そんなことが起こりうるのか?
確かに、もしトールメルとアギスウルムが完全に等質な恒星であったなら二つの惑星は永遠に交わることなく運行し続けただろう。だが現実は違った。それは二つの恒星の微妙な重力の差が生み出した惑星同士の公転周期の差が引き起こした現象だった。
天体の衝突によって飛び散った残骸は普通なら以前の自転による慣性で軌道上を周回したのち互いの引力で引き合って再び一つの天体を形成していく。しかしこの二つの惑星の場合、衝突によって互いの自転を相殺していた。しかも衝突地点は二つの恒星による広大なラグランジュポイントの中心だった。飛び散った残骸はトールメルにもアギスウルムにも誘引されることなくそのラグランジュポイントに留まり続けることになった。
二つの惑星は地球によく似た大気組成を持つ巨大な地球型惑星であり、本来なら衝突によって宇宙空間に拡散してしまうはずの大気もそれぞれが水星から地球並みの大きさと重力を持つ残骸に纏われたまま留まり、残骸たるアステロイドが次第にそれぞれの位置を定めるのに従ってその宙域に均質な大気圏を形成していった。
以上が惑星圏リエーレ誕生の筋書きだ。
「ほとんど鏡写しの二星系が織り成した奇跡がそこにあった」
これは人類がリエーレを発見した時、ある天文学者が感動を表現した言葉だ。一時は大手科学誌が毎月のようにリエーレの研究論文を掲載し、大衆メディアも学者たちを招聘して特集を組むほどの賑わいになった。
しかし「複数の天体間にまたがる大気」という不思議は間もなく市井の人々の心を打たなくなった。光速と時間の齟齬を克服する技術を身につけてなお太陽系から銀河の対岸へ渡るという旅は人々の不安を掻き立てた。いや、そんなことより費用がバカにならなかった。無重力を味わいたいならそんな額を出さなくともコロニーの港湾区画へ上ればいくらでも体験できるし、閉塞感が嫌だというなら宇宙服を着て地殻の外へ出ればいい。その程度のアクティビティなら街に一軒は物好きな店がやっているものだ。たとえ惑星の住人でも出張や旅行に行けば必ず旅客機の中で無重力を体験することになる。結局各種資源屋による惑星群およびアステロイドの採掘が終わるとリエーレはほとんど無人の空間に戻ってしまった。リエーレの発見から六十年余り経った今日、一個一億人の居住容量を有するコロニー群約二つ分の容積に人口はわずか百万人まで落ち込んでいた。
僕がそんな辺境に向かったのは三ヶ月の長い休暇をできるだけ遠くで過ごしたいと思い立ったからだった。幸い親戚がリエーレに住んでいるという友人を一人見つけることができたので、彼に取り次いでもらってホームステイの形で長期滞在が実現することになった。
「……この先大気圏突入により機体が揺れます。皆様シートベルトをご着用ください」スピーカーから機長のアナウンスが流れてくる。僕と同じ年頃の綺麗なCAが通路を回って一人一人の腰回りを確認していく。といっても二百席以上ありそうな客室に客は僕を入れて十五人程度だった。それだって一体何をしにリエーレにやってきたのか知れない。リエーレには外部に聞こえるような産業は何もないのだ。強いて言えば林業か。特段の開発なしに地球と同じ樹木を育成できるリエーレは銀河の「こちら側」における廉価な木材やパルプの一大産地だという。でも林業じゃさほど人手を必要としないので人の出入りにもほとんど影響はないはずだった。
間もなく旅客機の外殻全体から低い唸りが聞こえ始め、シートがマッサージチェアのように小刻みに震えた。地球の大気圏に降下する時と似ている。宇宙空間で出しうる速度のまま大気に突っ込むので抵抗で揺さぶられるのだ。摩擦で加熱した大気が窓の外をうっすらと赤く染めていった。真空と大気圏の間に明確な境界はなく、まず上層の希薄な大気が機体を優しく受け止めて減速させる。僕の乗るウェル107型旅客機は往還船規格であり、その程度の衝撃ではびくともしない。
「当機は間もなくフェルメール星間空港に到着します。完全に停止するまでシートベルトを外さないでください」
窓の外を見るとすでに赤熱は消え、遠い星々が白っぽく霞んで見えた。周りに空気がある証拠だ。外では赤く見えたアギスウルムも真っ白な光源に変わっていた。
間もなくウェル107は慣性航行を終えてスラスターで姿勢制御を始める。噴射の短い振動が鈍い衝撃になって機内まで響いてくる。真空と違うのは背後で推進用スラスターが唸っていることだ。大気中では前向きに力をかけないと抵抗で足が止まってしまう。空港は外航船の利便性を考慮して空域の中でもアギスウルム側に寄せて設置されたが、それでも大気圏境界から千キロ以上離れているらしい。宇宙船の減速には十分すぎる距離だ。
やがてウェル107は小惑星の内部を円筒形にくり抜いたターミナルに進入した。相対速度をゼロに合わせ、バースのターゲットに電磁アンカーを射出。ウインチでワイヤーを巻き取ってランディングギアをコンクリートの内殻につける。シートベルトのランプが消えた。
僕は荷物を持って出口に向かった。重力がかかっていないので手摺伝いに泳いでいくことになる。ドアの横で待っているCAに挨拶してボーディングブリッジを抜け、入管で預け入れの荷物が出てくるのを待った。
ターミナルビルは円筒形の内殻に埋め込まれる形で設置されていて、ガラス張りの天井越しに港内の景色がよく見えた。まず、思ったより明るい。これはウェル107の窓が防眩仕様になっていたせいだ。恒星の光が減衰される大気中では宇宙船ほどの防眩を必要としない。
ウェル107はほぼ目の前に見えた。広い空港だが発着便が少ないのでわざわざ遠いバースを使う必要がないのだろう。リフティングボディの機体はまるで三角に切ったはんぺんか生八つ橋みたいだった。出発前に見たところ窓のラインだけ青く塗られていたはずだが、今はやや下からのアングルになるので全く真っ白だった。ランディングギアやアンカー、貨物庫のハッチだけがやや灰色がかっていた。
奥のバースにはウェル107より圧倒的に巨大な箱型の貨物船が何隻か停泊していた。外航船と往還船が同居する光景は軌道上のハブターミナルを思わせた。
預け入れの荷物はコンテナ用のブリッジを伝ってビルに運ばれ、到着から十分ほどしてロビーの遠心定着式のコンベアに乗って流れてきた。色の抜けた赤いボストンバッグを見つけて拾い上げる。バッグの慣性を借りて手摺の支柱を蹴り、入管の窓口に向かって泳ぐ。荷物をスキャナーに通し、入域審査官にパスポートを渡す。五十くらいのロシア系の太ったおばちゃんだった。
「滞在先は……エア?」おばちゃんは僕のパスポートを片手で開いた。
「はい」
「仕事?」
「いや。観光で」
「観光?」おばちゃんは疑いと意外さの入り混じった声で訊き返した。老眼鏡をずらして上目で僕を睨む。
「長い休暇が取れたんでね。一度来てみたかったんですよ」
「物好きだね」
「物好きだって、たまにはやってくるでしょ」
「たまにはね。いいよ。通りな。いい旅を」おばちゃんはぞんざいにパスポートを畳んで僕に返した。別に次の客が詰まっているというわけでもなかった。もともとぞんざいな性格なのだろう。
何しろ人が少なく、その反面建物がバカでかいので迎えはすぐに見つけることができた。迎えを出してくれるという話を聞いていたけれど、誰が迎えに来るのか、どんな容姿をしているのか、僕は何も知らなかった。だから彼女は"Welcome Hiromasa OHARA"とマジック書きしたボードを掲げていて、僕がそっちへ向かって泳ぎ始めると手を振ってくれた。
近づくにつれて僕は想定外にドキドキしてきた。なぜって、彼女がとても可愛かったからだ。
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