夢見る泡

迷想

第1話


2020/3/28



夢見る泡






私は夢を見る。

ここでは私以外の人間はおらず、ひとりきりで水の底にいる。最後に丘に上がったのはいつだったか。ここには誰も来ないし何もない。海底から遥か頭上を見上げると、昼は太陽が水面に反射しそれはもうキラキラと眩く光っている。反面、夜は月明かりに照らされたみなもがどこまでも穏やかに優しく降り注ぐ。


音もなく生き、私はこのままここで次第に朽ち果てて静かに死ぬのだろう、誰からも見つけられることもなく。そう思っていた、少し前までは。


ある日、損壊した船が落ちてきた。


─あんたは…?おそらく漁師だろう、逞しい体躯を持った死に損ないらしい男は私にそう言った。可哀想だな、とも。こんな誰もいないところでひとりぼっちで、可哀想だと。自分自身があと数秒で死ぬというのに。何を言うのか、と思いながらも、目の前の瀕死の男の言葉はこの私にいつまでも引っかかっていた。


私は生(せい)を知りたかった。深淵の静寂を愛しながら、同時に地上の人間の営みに憧れた。


だから私は、丘に上がることにした。








僕は今日も浜辺に来ていた。

すると、海からザバリと人が現れたのだ。僕は面食らって、何も言えなかった。ぱくぱくと口を阿呆のように開いて、面食らい唖然としている僕自身の顔が鏡を見ているようにありありとわかる。いや、それよりも。なんなんだコイツは!?


「やあ!キミは人間の子どもだね?」

運がいい、こんなにすぐに人に会えるなんて…海から唐突に上がってきた真っ裸の男は、ぼくにまるで生まれたばかりの子どものような真っ白い歯を覗かせてキラキラと輝く笑顔でそう言った。


「に、人魚…」

「うーん、正確にはちがうかな。だってほら私には足もある」完全に得体の知れないわけのわからない男は、狼狽えるぼくをよそに茫洋と、ブラブラと、無駄に長い脚を振ってみせるのだった。

「アンタいま海から上がってきたじゃないか!!っどっちでもいいけど…服ぐらい着なよ!大人のくせに!あと男かよっ!!」

「そう言われてもなあ〜」

よく見ると驚くほど整った顔をした美しい男は緊張感のないニヤけた笑顔を絶やすことはなく、ボリボリと髪を掻き上げながら間の抜けた声を出す。

「─持ってねえの?仕方ねえなあ…これ履けよ。父ちゃんの水着だけど…」


様子を見るに、この近辺の漁村の子どもといったところだろう。よく日焼けした小麦色の肌に包まれて汗ばんだ小さな身体は溌剌とした生きているもののエネルギーに満ち溢れている。ああ、私はこれが見たかった。冷え冷えとしたどこまでも静かな海の底にはない、生命の息吹だ。

遠くウミネコが鳴いている。私は波打ち際に立ち、足をさらう海水の感触を確かめながら言った。

「服をありがとう」


「なあ、にいちゃんどっから来たんだよ。船から落ちたのか?それともやっぱり人魚じゃねーのか?」

「私ももとは人間だったんだよ」

「なーに言ってんだよ、にいちゃん見た目も変だけど、言ってることもへんだな〜」

少年は足元の小枝を拾い上げながら続ける。

「にいちゃんみたいな男がいるかよ、そんな長ったらしい髪して、オマケに瞳も金色だ。まるであすこの教会に飾ってある絵みたいだ」

「それは非常に光栄だ。ルーベンスかい?それともグレコ?ベラスケス?」

「そんなの、何いってるかわかんねーよッ。父ちゃんみたいなこと言うなよ」

少年はそう言って、小さな唇を尖らせて、私から視線を逸らしぷいとあちらを向いてしまった。率直な子だ。遠慮のない態度が好ましく、私はどうしようもなく頬が緩むのを自覚した。

「なに笑ってんだよっ」


「にいちゃん何も持ってないし一人で置いていけないなー。仕方ないからオレが一緒に遊んでやるよ」

少年はそう言うと、有無を言わせる暇もなく私に砂の山を作らせた。さらさらとした冷たくしっとりとした沈みゆく砂粒の手触りを、私は指先で感じる。浜辺に向かい合って座り、両手で砂を積み固めながら私は少年に言葉を投げかけた。

「お父さんは、どうしたんだ?私に水着を貸してくれただろう」

「父ちゃんは漁に行って帰ってこない。母ちゃんやみんなはあきらめろって言うけど、戻ってきたときに誰もいないとかわいそうだろ。だからオレはこうして毎日迎えに来てる。父ちゃんは絶対、必ず戻ってくる。だって、にいちゃんもさっきみたいに海から来ただろ」そう言った少年の瞳には冒し難く美しい、確かな強い光があった。だから私は、何も言えなくなってしまった。

「そうか…」



そろそろ私は泡になる。 今日という一日で、私は海の中では永遠に見ることの叶わないものを見、感じることができた。砂を踏む両の足裏の感覚、じりじりと肌を焦がす日差し、頼りないか細く色素薄い私の髪に絡まる潮の匂いがする海風。砂浜を走る子どもの姿、その汗ばんだ肌に張り付くひとすじの髪、屈託のない笑顔からのぞく白く小さい歯、いのちあるものの美しいフォルム。そのすべてが、生きている、確かに輝く生命の煌めきだった。何百年も前に決別した地上への遥かなる憧憬を私はとうとう忘れることができなかった。でもこれでいい。後悔はない。私は人間として消えるのだ。



「あー、楽しかった!!なあ変なにいちゃん!明日もまた遊ぼうぜ!」「…にいちゃん?おーい!!どこだ?」




私は泡になって空(くう)に消えた。

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