第一話 日常Ⅲ

 直感を頼りに悠月は日の傾いた市内を駆けていく。

 混雑を抜けて、普段通らない道を疾走する。歩を進める度に本能が告げていた。

「――近い。近づいてる。やっぱりだ。やっぱりあの違和感は本物だった」

 誘われるように右へ左へ。いつしか人の気配は完全に消え失せて、代わりに夕日も差し込まない路地裏へと辿り着いていた。

 悠月の表情が一層険しくなる。

 間違いない、この先で何かが起きている。確証を得た悠月は迷うこともなく、路地裏の闇の中へと消えていく。

 そうして何度か曲がり角を曲がった先に――〝大輪の華〟が咲いていた。

「な――ッ!?」

 驚きのあまり悠月は言葉を失った。

 華、などと呼ぶのはおこがましい。夥しい量の鮮血が壁一面を彩っていたのである。

 華の根元には素材となった人の死体が転がっている。死体は動かない。だが、腹部からの流血が止まっていないところから察するに、この素材が命を摘まれたのはつい今しがたと見て問題はなさそうだ。

「人、なのか……アレ……あんなの人の死に方じゃあ……ないだろう」

 鼻腔をくすぐる血の匂いに、思わず吐き出しそうになる。

 だが、あまりにも浮世絵離れしすぎた現実はどうも受け止めきれず、嫌悪感よりもむしろ懐疑感の方を強く抱かせた。

「とりあえず、電話を。警察に……いや、父さんに連絡しないと……」

 誰が、一体どういった経緯でこの殺人をやってのけたかは不明だが、兎にも角にも詳しい事情を調べるには警察を頼る他にない。

 震える指先で端末を操作する悠月。頼った先は父である仁だった。

「父さん。早く出てよ、早く……!!」

 もはや悠月はパニックに陥る寸前の状態であった。いくら警察官の息子といえども、こんな殺戮の現場に居合わすのは初めての経験なのである。怯えて然るべきだろう。

 幾度と繰り返されるコール音が悠月の不安を殊更に煽る。

 刹那の数秒が永遠とも感じられるくらいに細く、長い秒針を刻んでいく。

 正常な思考が完全に異常に塗りつぶされるかというまさにその時。

 背後で凛とした声が響いた。

「――ほう、これは驚きだ。まさか先客がいるとはな」

 逢魔時。人が失せ、魔物が跋扈する昼と夜の境目にして生者と死者が交わる黄昏時。

 濃く、暗い夕暮れを背景にして其処には――長い髪の魔女がいた。

「あなたは?」

 悠月は端末を下ろしながら訊ねた。

「なーに、名乗るほどの者ではないさ。私はただの〝情報屋〟さ。最近この街で起きている事件を追っていてね。偶然、道に迷ったのさ。お前と同じようにな」

「そんな話を信じろと?」

「信じる信じないはお前の勝手さ。好きにすればいい。だがこちらの都合としてはお前の自由行動を許すわけにはいかなくてなぁ」

 声に殺意が宿っていた。

 この女は危険だと本能が告げていた。

「くッ!!」

 咄嗟に悠月は背中に隠していた護身用の短刀を手に取った。

「……下手な気を起こすなよ、ガキが」

 言うな否や、外套の女は瞬時に距離をつめてきた。まるで獲物を狙うハヤブサだ。悠月が距離を取るよりも早く、女は自分の懐へと飛び込んできた。

 追える範囲で行動を抑制しようと応戦する悠月。父と長い修練を積んだのは、何も刀剣の扱いだけではない。基礎的な近接戦闘の類は全て叩き込まれている。ただの通り魔であれば、一人でも撃退できる自信はある。見たところ相手は細身の成人女性。鍛えられている自分が負ける可能性は限りなくゼロに近い。ましてや、腕力に差がある男と女の戦闘ともなれば尚更である。

 だが、結果はどうか。

「なっ、早いッ!?」

「お前が遅いんだよ」

 悠月は呆気なく地に転ばされた。

 仰向けで叩きつけられた勢いで、悠月はガハッとくぐもった声を吐き出した。

「僕を、どうするつもりだ……!」

「何もしないさ。お前は大切な同胞だ。殺すには惜しい」

「同胞? ふざけるな、僕はあなたなんて知らない。勝手に、仲間扱いするなっ!」

 組み伏せられたものの、悠月の手にはまだ短刀が握られていた。

 これも父との修練の賜物か。悠月は素早く柄を持ち直すと名も知れぬ襲撃者に刃を振りぬいた。しかし、それもまた魔女の前では無駄な足掻きに過ぎない。

「なに!?」

 刃は彼女に届くどころか不可思議な空間で動きを止めていた。

 無論、力は弛めていない。むしろ一層の力を籠めて刃を届かせようとしている。

 だが、彼女の居る空間が介入を許さないのだ。喩えるならばそれは、風の鎧を身に纏っている様であった。

「無駄だ。まだ目醒めていないお前に私を止めることはできない」

 カチカチカチと手に持っていた短刀が震えている。

 握る力を少しでも緩めれば、呆気なく刃は吹き飛ばされてしまうだろう。

「くそっ、なんで!!」

 これは夢か幻か。悠月の双眸には有り得ない光景が視えていた。

「茶番は終わりだ」

 女は空いていた片足で悠月の腕を蹴り飛ばした。

 短刀を持っていた持ち手を拘束しなかったのはこの為か。不意を突かれた悠月はいとも簡単に武器を手放してしまった。

 短刀は蹴られた衝撃で音を立てながら裏路地の遥か彼方へと吹き飛んでいく。

 勝敗は決した。これ以上、悠月に対抗できる術は無い。もし仮に、この襲撃者が昨今話題となっている連続怪死事件の犯人ならばこれで悠月を血祭りにして終わりだろう。

 しかし、現実はそうはならなかった。

 女は満足したように笑みを浮かべると、あろうことか悠月の拘束を解いて死体のある方へと歩き出したのである。

 どうやらこの女は本当に情報を集める為だけにこの場所に足を運んだようである。

「なんなんだ、あなたは一体」

 命のやり取りから一転。梯子を外されたような感覚に陥った悠月はつい緊張の糸を解いて訊ねていた。

「人の話を聞かないやつだな。情報屋だと名乗ったはずだが」

「違います。あなたの名前です。その様子だと僕のことは知っているんでしょう?」

「一応な。知りたくはなかったが」

「だったら教えてください。一方的に知っているのはフェアじゃないでしょう」

「ハハハ! お前、面白いな。この状況で気になることがそれか。てっきり恐れをなして逃げるかと思ったが、度胸だけはあるみたいだな」

 女は右耳に触れるとなにやらボソボソと喋り出す。

「ライカ、今回の被害者はどうやら大腸をやられたらしい。まとめておいてくれ」

「ちょっと、聞いてるんですか!」

「亡霊がいる気配はない。逃げたか或いはこの男が始末したのか」

「ッ、あの!」

「はいはい、聞いているよ。うるさいガキだなぁ」

 女は自分で吹き飛ばした短刀を拾うとヒョイっと悠月に投げて返した。

「アルメリアだ。アルメリア・リア・ハート。英国生まれの魔女にして……おそらく、一番の嫌われ者だ」

「魔女?」

「別に覚えなくていい。お前の日常には不要な情報だろうからな」

 魔女はくるりと踵を返すと夕日に向かって歩き始める。

「着いて来い、鷲宮悠月。此処を出るぞ。こんなところじゃあ電話をしたって誰も来やしないよ。ちゃんと元の世界に戻らないとな」


 警察が現場に到着したのはそれから二十分後のことだった。

 二人が裏路地に続く入り口で待機する中、警察官が見たのは一角に咲く大量の血痕。

 しかし、二人が見たはずの死体はどこにもなく、あれだけ散らばっていた臓物は肉片一つ落ちていなかったという。

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