終章 レティシアの物語(3)
31 婚約破棄
ユベールと別れてから数日が経ったが、私は何もやる気が起きず、ご飯の時間以外は自分の部屋で過ごした。
ただ部屋にいるのも暇なのでお父様がプレゼントしてくれた本、『男に愛される女になるための百八箇条』をぺらぺらとめくって見ているのだが、ちっとも頭に入ってこない。本をめくる手よりも、私にカフェラテを飲ませたりチョコレートを食べさせたりする手の方がよく働いている。
お父様は少なくとも一日三回は私の部屋をのぞいてくるのだが、私が無表情で本を眺めていると、いけないものでも見てしまったかのような気まずい表情をして、何も言わずに部屋の戸を閉めるのだった。今頃、私に本をプレゼントしたことを後悔しているに違いない。
今までは乗馬や剣の稽古をすれば気が紛れたのに、今まで好きだったものでさえ、今はする気になれなかった。
ある日、コレットが
「レティシア様、イレーヌ・ヴィンデンブリューテ様がお見えです」
と呼びに来た。
意外な来客に、私は急いで客間へ向かう。最近はリーヴェスに会っていないのだから、前回のように注意はされないはずだ。だとしたら、いったい私に何の用だろう。
客間の戸を開けると、そこには派手な格好をしたイレーヌが立っていた。黒くて大きい帽子には、大小さまざまな鳥の羽根が刺さっている。身につけているドレスも、赤と青と黄色の布に大きな柄の刺繍が入っており、遠くにいても目がいってしまうくらい存在感のあるものだった。
前までは質素な衣装を豪華に着こなしていたイレーヌだったが、今は奇抜な衣装と小物で身を包んでいる。私が着れば大笑いされてしまいそうなドレスも、イレーヌが着ていると美しく見えてしまうから不思議だ。
イレーヌのあまりの変わりように私が言葉を失っていると、
「あら? その本……」
とイレーヌは私の持っていた本に興味を示してきた。
急いできたあまり、うっかり『男に愛される女になるための百八箇条』を持ってきてしまった。
「そんな本読んでも、意味ないわよ」
イレーヌが冷やかすように言ってくる。男性たちから高い人気を誇る女性に、恋愛指南本を読んでいることを知られてしまうなんて、この上なく恥ずかしかった。
私が慌てて言い訳を考えていると、
「だってその本、私が書いたものだもの」
と扇子を仰ぎながらイレーヌは言った。
「え!?」
慌てて著者名を確認するが、著者名には男性の名前が書かれている。
「本名で書くわけないでしょ、知り合いに頼まれて仕方なく書いたのよ」
イレーヌは頬を赤くしながら笑った。以前会った時とは違い、顔色は良く、何かに吹っ切れたような晴れやかな顔をしている。
「その本の著者は、不特定多数の男からの好意は得られても、たった一人の好きな男には相手にされなかったの。男の気を引こうとあれやこれやと手を尽くしてきたのに、結局最後は何も考えてない女に横から持っていかれるんですもの。やってられないわ」
イレーヌはすねたような顔をしたが、口元は緩んでいた。
「今日はあなたに、お別れを言いに来ましたの」
扇を閉じて腰のベルトに指すと、イレーヌは私の両手を包み込むように握る。
「前は見苦しい姿を見せてしまってごめんなさいね。なんであんなに突発的な行動をとってしまったのか、今改めて考えてみるとよく分からないの。あの時はあなたに文句をどうしても言いたい気分だったのだけれど……なぜかしらね、あなたと話した後の帰り道、今までなんとなくすっきりしなかった心が、いっきに晴れたような気分になったの。それでね、私――、リーヴェスとは婚約破棄しましたの」
「え!?」
突然の告白に驚く私を見て、イレーヌは口元に手を当てながら楽しそうに笑った。
「今でもまだリーヴェスのことは好きだけれど……もういいんですの。これからは好きなものを着て、好きなことをして、言いたいことを言って……そしてそんな私でも好きだと言ってくれる男性と一緒にいることにしましたの。私、海外のお金持ちのところへ嫁ぐのよ」
イレーヌは迷いのない瞳をしていた。
「リーヴェスは何て言ってるの?」
「婚約破棄して海外に行くって言ったら、とても喜んでいたわ。私、今までリーヴェスに笑ってほしくて頑張ってきたのに、何をしてもだめだったの。なのに婚約破棄をしたら、私が今まで見たくてたまらなかった顔を私に見せてくれたのよ。好きな相手ができたのか? よかったな、ですって。もう、嫌になっちゃう。――でもね、好きな人と婚約していた頃よりも、今の方がなぜか楽しいのよ」
イレーヌの笑顔はきらきらと輝いていた。リーヴェスとイレーヌが破談になってしまったことは、二人にうまくいってほしいと願っていた私にとっては残念なのだが、目の前にいるイレーヌの楽しそうな顔を見ると、受け入れることしかできなかった。
「リーヴェス、寂しくなるわね」
小さな家に男の子と二人でいるリーヴェスの姿を思い出しながら、私はつぶやいた。
「何言ってるのよ、あなたがいるんだから寂しいわけないじゃない」
イレーヌは可愛らしく頬を膨らませている。
「だから、私とリーヴェスはそんな関係じゃ――」
私が慌てて否定しようとすると、イレーヌは扇を私の口に当てた。イレーヌの目は私に「これ以上喋るな」と訴えている。
「私の本のファンのようだから、特別にアドバイスをあげる」
と言うと、イレーヌは私が持っていた『男に愛される女になるための百八箇条』を奪った。
「この本はなかなか評判が良かったのだけれど、あなたは読まない方がいいわ。この本の通りに振る舞うと、あなたの良さが台なしになってしまうから。あなたは何も考えずに、ただリーヴェスに会いに行くだけでいいの。そのうちきっと、リーヴェスの方から結婚してほしいと言ってくるわよ。悔しいけど」
リーヴェスの方から結婚してほしいと言ってくる? 嫁の貰い手がないとお父様が頭を悩ませているこの私に? そんなまさか。
反論したかったが、私が口を開こうとするたびにイレーヌは私の口に扇を当ててきて、私が話すことを許してくれなかった。
「……もう二度と会うこともないでしょうね。リーヴェスをよろしくね、ごきげんよう」
イレーヌは私の本を持ったまま帰って行った。
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