28 テネブライとの心理戦

 気づくと、見慣れた小屋の中にいた。目の前には、私の手に巻かれた紐を必死にほどこうとするお母様がいる。


 自分の体を見ると、誘拐された時に着ていた服と同じものを身につけていた。体も一回り小さくなっている。

 もう一度やり直したいと、今まで幾度となく願ってきた“あの時”に戻ってくることができたのだと思った。今の私だったら、お母様を助けられる自信があった。


 お母様は私が目覚めたことに気づくと、涙ぐんだ。鼻をすすりながら、私の手を縛っていた紐をほどいてくれた。

 お母様は私の耳元に口を近づけると小さな声で言う。


「小屋に人のいない今がチャンスよ。レティシアだけ逃げなさい」

「分かった、すぐに助けを呼んでくるからね」


 私はお母様と同じくらい小さな声で返した。


「いい子ね」


 お母様は潤んだ目を細くして笑うと、私を力いっぱい抱きしめた。お母様はこれが最後のハグになるかもしれないと思っているようだったが、私はこの別れを最後にする気はない。


「行きなさい」


 お母様は小屋の出口に向かって、私をぽんと優しく押した。

 戸から外に出ると、銀色の羽をした小さな鳥が窓から小屋の中をのぞきながら、ぱたぱた羽を動かしていた。


「ここは危険よ。私と一緒に逃げましょう」


と言うと、私は小鳥を手で持った。小鳥は、羽を激しく動かして抵抗してくる。私は小鳥に大丈夫、大丈夫と声をかけながら、街を目指して走った。

 誘拐犯の二人に見つかる前に森を抜けるようと、私はとにかく急いだ。


 森での土地勘がまったくなかった頃の当時とは違う。

 お父様に一人で出かけることを許してもらえるようになってからは、森には毎日のように剣の稽古に来た。森の中を隅々まで探検し、今では自分の庭だと言えるほど道を熟知している。誘拐犯たちと追いかけっこになっても、逃げきる自信はあった。


 街へ向かって走っていると、男二人が遠くの方から歩いてくるのが見えた。当時、私を捕らえたのと同じ男たちだった。私は息を殺して草むらに隠れ、男たちが過ぎ去るのを待った。男たちは私には気付かず、そのまま小屋へ向かって歩いて行った。


 これは逃げきれるに違いない、と思った。心臓がばくばくとうるさい。手は小刻みに震えた。


 しかし結局、もうすぐ森を抜けられるというところで、誘拐犯の男たちに見つかってしまった。男たちは一度小屋に戻ったあと、私がいないことに気づき、すぐに探しに来たようだった。

 必死に走ったが、男たちの足は予想以上に速く、すぐに追いつかれてしまった。


「あなただけでも逃げなさい」


 私は手に抱いていた小鳥を離してやった。小鳥は私を気にすることもなく、ぱたぱたと羽を動かして逃げて行く。

 私は覚悟を決めて、男たちと向き合う。もし男たちが邪気にやられているのだとしたら、触ることで浄化できるのではないかと思った。

 男たちに向かって走り、私は二人のうち一人の男を両手で触る。


「お嬢ちゃん、自分から突っ込んでくるなんてバカだなぁ、ぎゃはははは!」


 男は大声で下品に笑うと、私の服の襟首をつかんだ。私の抵抗はまったく効かなかった。

 服の襟首をつかまれたまま、私は小屋に連れ戻される。

 小屋に入ると、血を流したお母様が倒れていた。


「お母様……!」


 私は急いでお母様を抱き起こすが、お母様はすでに息をしていなかった。実際にお母様が死んでしまったところを初めて見て、私は何も考えられなくなった。

 お母様の隣には、見覚えのない男が立っていた。誘拐犯は二人ではなく、もう一人いたようだ。


「お前の母ちゃんは、お前を逃がしたせいで俺に殺されちまったよ。まぁ、遅かれ早かれこの女は殺す予定だったがな」


 三人の男たちは、お母様と私を見ながらいやらしく笑った。


「次はお前の番だ」


 お母様を殺したと言った男が、私に血のついたナイフを向けてくる。


「上に確認したら、お前の眼さえあればいいんだと。ガキ連れて動くのもめんどくせぇし、お前はここまでだ。じゃあな」


 後ろから他の男に押さえられ、身動きがとれない。ナイフはそのまま、私のお腹に向かってやってきた。目の前が真っ暗になった。




 気づくと、目の前にはお母様がいた。私の手に巻かれた紐を必死にほどこうとしていた。お母様は私が目覚めたことに気づくと、涙ぐんだ。鼻をすすりながら、私の手を縛っていた紐をほどいてくれた。

 お母様は私の耳元に口を近づけると小さな声で言う。


「小屋に人のいない今がチャンスよ。レティシアだけ逃げなさい」


 私は気を取り直して、今度こそお母様を助けようと思った。


「嫌だ、逃げるならお母様も一緒」


 私はお母様に泣きつく。お母様が何と言おうと無理やりにでも連れ出さなくては、お母様が殺されてしまう。


「お母様はレティシアさえ無事ならそれでいいの。いい子だから、お母様の言うことを聞いてちょうだい」


 お母様は大粒の涙を流しながら、私を説得しようとした。


「私一人でなんか逃げない、お母様も一緒に逃げよう。大丈夫よ、逃げられるわ」


 先ほどは失敗したが、実際には逃げきることができているのだ。うまくいけば、お母様と二人で逃げることができるだろうと思った。

 私はお母様を縛っている紐をほどこうと、手を伸ばす。


「うるせぇな、何事だ?」


 お母様を殺した男が、小屋の戸を蹴り開けて入ってきた。誘拐犯の男がこんなにも早く小屋に入ってくるなんて予想しておらず、私は驚きが隠せなかった。私が気づかなかっただけで、目の前の男はどうやら小屋の近くに待機していたようだ。


「レティシア、いいから早く逃げなさい」


 縄で縛られているにも関わらず、お母様は誘拐犯に全身でぶつかり、私が逃げる時間をかせごうとした。しかし、お母様はすぐに男に頭を殴られ、床にうずくまる。


「レティシア、早く!」


 血を流しながらも、お母様は何度も男に向かって行く。

 今やっているように、命がけでお母様が目の前の男を足止めしてくれたから、現実世界で私は逃げきることができたのだろうか。目の前の男がすぐに私を追いかけてきていたら、逃げきることは難しかっただろう。


「お母様、もういいよ……。やめてよ」


 私はただ泣きながら、お母様が殴られるのを見ていることしかできなかった。


「上と連絡が取れました」


 二人の男が小屋に戻ってきた。


「なんて言ってた?」

「紫色の眼さえ入手できたら、あとは俺たちに任せるそうです」


 三人の男たちは、目を合わせると笑い始めた。

 私はお母様のそばに行くと、「大丈夫?」と声をかけながら、怪我をしている部分をさする。

 そんな私に対して、お母様は悲しそうな顔で

「レティシア、お願いだから逃げてちょうだい……」

と何度もつぶやくのだった。お母様の声はかすれていて、弱々しかった。


「親子仲良く一緒に殺してやるよ。お嬢ちゃん、怖くないように目でもつぶっていたらどうだ?」


 男たちは笑いながらナイフを振りかざしてきた。

 お母様は私を強く抱きしめる。お母様の悲鳴が聞こえた。

 そして目の前がまた真っ暗になった。

 今回はお母様が殺される瞬間をこの目で見ることになった。




 気づくと、目の前にはお母様がいた。私の手に巻かれた紐を必死にほどこうとしていた。また同じ場面だ。


 たまたま運が悪かっただけかと思い、私は同じ場面を何度も繰り返した。

 一人で逃げる時に違う道を選んでみたり、お母様に一人で逃げるよう説得してみたり、毎回少しずつ違う方法を試してみたが、全部だめだった。何度繰り返しても、お母様と私は殺される。


 銀色の羽の小鳥が私のことを助けてくれたのは、現実世界での一回のみだった。何度も同じ場面を繰り返したが、お兄様が私を助けてくれることは一度もなかった。


 気のすむまで同じ場面を繰り返し、私はようやく、今の自分でさえお母様を救うことができないのだと悟った。

 目の前のお母様が私に逃げろと懇願するなか、私は泣き崩れた。これ以上同じ場面を繰り返しても無駄だ。どう頑張っても、結果は同じなのだから。




 周りが暗闇に包まれ、テネブライが姿を現した。


「無力なレティシア。何回同じ場面を繰り返しても、結局あなたには母親を救うことはできないのね」


 テネブライは笑ってはいるが、少しいらいらしているようにも見えた。

 私は涙を流したままの目でテネブライを見る。


「テネブライ……、気づかせてくれてありがとう」

「やめて、そんな感情、私に抱かないでよ」


 テネブライは首を横に振りながら、真っ青な顔で言った。私がテネブライに歩み寄ろうとすると、テネブライは叫びながら後ずさる。


「私はあなたに絶望してほしくて、さっきの場面を繰り返し見せたのよ。なのに、あなたの心の闇はちっとも大きくならない。それどころか、私に感謝の気持ちを抱くなんて!」


「あの時もう少し違う振る舞いをしていたら……って、当時を思い出すたび何度も自分を責めてきたわ。もう一度あの時に戻れたら、お母様を救えるはずだって、ずっと思ってた」


 誘拐された場面を何度も繰り返したためか、まぶたを閉じればお母様が私を思って泣く姿が今でも見える気がした。「レティシア逃げて」と叫ぶお母様の声も耳に残っている。


「でも違った。最悪な結果だと思っていた現実が、実はお母様とお兄様が私のために動いてくれたからこそ起こせた奇跡だった。そのことに気づかせてくれたテネブライには、感謝しても感謝しきれないわ。

 今までは誘拐された時のことを思い返すと自分への後ろめたさしかなかったけれど、今は自分の不甲斐なさを感じると同時に、私を支えてくれてた周りの人への感謝の気持ちで心が温かくなるの。

 お母様を救うことはできなかったけど、私だけは助かってほしいっていう、お母様のせめてもの願いだけは叶えることができてよかった」


 テネブライはよろめいて、その場に座り込んだ。震えながら、青い顔で私のことを見上げている。

 テネブライの顔がどことなく若返っているように感じられた。目の前の彼女は、私と同い年くらいに見える。


「あんたの母親、あんたさえ無事ならそれでいいって言ってはいたけど、それが彼女の本心だったと思う? あれはあんたを傷つけないために言った、ただの嘘よ。あんな嘘を信じられるなんて、お気楽でいいわね。本当は自分も助かりたかったに決まっているじゃない」


 テネブライの後ろから、お母様に似た女性と、お父様に似た男性が現れた。


「なんであなたの代わりに私が死ななきゃいけなかったのよ。あなたなんて、産まなければよかった」

 お母様に似た女性が言った。続いて、お父様に似た男性も言う。

「紫色の瞳の子どもが生まれてきたばかりに、大事な妻を失う羽目になった。お前はわが家に不幸を運んできた」


 目の前の二人の姿に、私は懐かしさを感じた。彼らは、幼い頃の私の夢によく出てきた。当時の私は、これがお母様とお父様の本心なのだと信じ、一人で勝手におびえていた。

 二人を見つめたまま何も喋らないでいると、テネブライはしびれを切らしたかのように怒りながら叫んだ。


「だからなんで、あんたの中の闇は大きくならないのよ。あんたの中の負の感情、私にはしっかり見えてるのよ?」


 私はお母様とお父様の姿に似た二人の手をとり、微笑んだ。二人はそれ以上何も喋ることなく、静かに消えていった。

 消えて当然だ。なぜなら、彼らはただの幻想にすぎないのだから。


「私は実際に目にしたものだけを信じるの。本心ではどう思っているかなんて、実際にその人にならないかぎり正しくは分からないわ。考えようとしたって、不安な気持ちが大きければ大きいほど、悪い方にしか考えられなくなってしまう。

 ――だから私は、私に逃げろと言ってくれたお母様の命がけの言葉を、陽気なお父様が泣きながら私を励ましてくれた言葉を信じるの。自分の弱い心が勝手に作り出した幻想ではなくて、当の本人から聞いた生きた言葉を信じるの」


 気づくと、テネブライは少女の姿になっていた。まばたきをして確認したが、見間違いではなさそうだ。


「あなた、テネブライよね?」

と驚いて聞くと、目の前の少女は

「そうよ。具現化した邪気の塊が少なくなると、大人の姿を保っていられなくなるの」

と答えた。つい先ほどまでは苦しそうな顔をしていたのに、今はすっきりとした表情をしている。


 幼くなったテネブライは、可愛い声で私に聞いてきた。


「人間はみんな、負の感情を嫌うの。頑張って打ち消そうとしたり、見ないふりをしたりするのよ。だけどあんたは、心の奥に大事にそうに負の感情を抱えてる。過去に感じた自分の無力感や後悔の思いを、消し去りたいとは思わないの?」


「私がお母様のことを大好きなかぎり、どんなにあがいたところで、お母様を救うことができなかった自分に対する、無力感や後悔の思いを消すことはできないわよ」


 私は当時の自分を思い出しながら話す。


「幼い頃は何度も自分の感情に負けそうになった。誘拐に遭った時の記憶を消し去ってしまいたいと思ったこともある。だけど、忘れられなかった。

 忘れたい、忘れたい、と繰り返し心の中で唱えても忘れられない。過去を思い出して苦しみ、その過去を忘れられなくてまた苦しんだ。そしてある時気づいたの」


 暗闇の中に一筋の光が差し込んできた。光の筋は、テネブライと私の間を分断するかのように輝いている。

 光を見ることはせず、私はテネブライの顔を見たまま話し続ける。


「嫌な記憶だけ忘れることなんてできないって。お母様を救うことができなくて苦しいのは、私がお母様を愛しているから。

 悲しんだり、不安になったり、後悔したり、時には自分を責めたりすることもあるけど、負の感情の根本は――愛なのよ。

 お母様を愛する気持ちは、少したりとも失いたくないから――私はこの先もずっと後悔の思いを抱えて生きていく。後悔の思いをずっと抱えて生きていくのは楽ではないけど、私はそれでいいの」


 テネブライは曇りのない笑顔を浮かべながら私の話を聞いてくれていた。


「目をそらさずに自分の負の感情をずっと見続けてきたあんただから、そう考えることができるようになったんでしょうね。闇の先にもずっと闇が続くとはかぎらない。あなたは自力の力で闇を抜けたのよ」


 暗闇に差し込んでいた一筋の光が、徐々に太く大きくなっていく。光の量が増えていくのとともに、次第にユベールやお兄様の声がどこからか聞こえてくるようになってきた。


「邪気の塊たちが、全部倒されてしまったみたい。当分お別れよ、レティシア。また会いましょう」


 あどけない笑顔でテネブライが手を振った。周りがどんどん明るくなっていく。真っ暗で周りが何も見えなかった状況とは一転し、今度は逆にまぶしくて周りが見えなかった。まぶしさに耐えられず、私は目をつむった。

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