10 街に魔物出現

 レストランは劇場に隣接しているだけあって、正装した人ばかりだった。普段着を着ている私たちは入店を拒否さえされなかったものの、店員には見るからに嫌そうな顔をされ、しぶしぶ案内された席はトイレの近くだった。


 場違いな服装をしている自分が私は恥ずかしくてたまらないのだが、ユベールは周りの目を気にしている様子はなく、一人の客として堂々と振舞っている。


 リーヴェスたちの席と私たちの席は近くはないものの、リーヴェスたちの様子を気兼ねなく観察できる、ほどよく離れた位置だった。


 ユベールはメニュー表を見ると

「案外安いね」

とつぶやいた。


「何言ってるのよ、ここ高級店よ」

と言いながら、私もメニュー表をのぞき込む。


 飲み物一杯の料金が、私がよく遊びに行く庶民向け食堂の昼食よりも高い。


「私、あんまりお金持ってないんだけど、大丈夫?」


 私は心配になって、小声でユベールに尋ねた。レストランに入ってしまった以上、何かしら注文しなくては追い出されてしまう。


「好きなものを頼むといいよ。お金なら僕が持っているから」


 ユベールの身なりを見るかぎり裕福そうには見えないのだが、メニュー表に載っている金額を見ても動じないということは、ユベールは案外お金持ちなのだろうか。

 高い金額を見てしまうと自分でメニューを選ぶことができず、結局私はユベールと同じものを頼んだ。


 料理の注文が終わったので、

「じゃあ私、リーヴェスを浄化してくるわね」

と私は早速、自分に与えられた任務を遂行すべく席を立とうとした。

 しかし、ユベールがすぐに止めてきた。彼は私の服の袖をつかみながら言う。


「ちょっと待って、何て言ってリーヴェスに近づくつもり?」


 そこまで深く考えていなかったので、


「ひとまず自己紹介よね。『私はレティシア。あなたを浄化しに来たの』って言って触るのはどうかしら?」


とその場で考えながら答えた。ユベールは渋い表情をしている。


「却下。第一印象は大事なんだ。最初に変な印象を持たれてしまうと、挽回するのに時間がかかる。レティシアはリーヴェスを浄化するだけじゃなくて、好きになってもらわなきゃいけないんだからね?」


 ユベールは作り笑顔で教え諭すように私に言う。ユベールが袖を離してくれないので、私は仕方なく椅子に座り直した。


「じゃぁ、どうしたらいいのよ?」


 私は口をとがらせながら、ユベールに聞いた。


「まずは二人を観察して、接触するのに最適なタイミングを見極めよう」


 グラディウスはこのレストランで魔物が出ると言っていたのに、ユベールは悠長なことを言っている。


「接触するよりも前に魔物が出たらどうするのよ?」


 ユベールはリーヴェスたちをじっと観察しながら、私の質問に答える。


「被害さえ出さなければ、魔物が出現したあとだって問題ないよ。むしろ、魔物の出現後に危ないところを助けた方が、リーヴェスは僕たちの話をちゃんと聞いてくれるかも」


 ふとユベールと出会った時のことを思い出した。ユベールは、私が命を狙われて危なかったところを助けてくれた。


「ねぇ、こんなこと聞きたくないけど、もしかして私が魔物に遭遇するよりも前から私のこと見てた?」


 ユベールはリーヴェスたちを見たまま、何も答えない。


 給仕が食事の前に飲み物を運んできて、テーブルの上に置いた。

 ユベールは「ありがとう」と言うと、氷の入った飲み物をすぐに飲み始める。私の質問には答える気配がない。


「ねぇってば」


と言って、私はユベールの視線を遮るようにユベールの前に立った。


「――分かったから、席に座ってくれない?」


 ユベールは面倒くさそうに言った。そして私が席に座ったのを確認してから話し始める。


「実際に魔物と遭遇する前に『一緒に魔物から世界を救ってほしい』って言っても、信じられなかったでしょ? どんな状況であれ、僕が君の危ないところを救ったっていう事実は変わらないから」


 ユベールは冷たい笑顔で言うと、またリーヴェスたちの観察を始めた。


 はっきり肯定はしていないが、ユベールは私が危険な状況に陥るのを、近くで黙って見ていたのだ。だがユベールの言う通り、私は危ないところを助けてもらったことには変わりないため、

「そうね、ありがとう」

と言うと、この話を終わらせた。


「そんなことより」

とユベールは話題を変えてきた。


「意外と、リーヴェスと婚約者の仲を引き裂くのは簡単かもしれない。二人の仲は悪くはなさそうだけど、親密そうな雰囲気はない。さっきから観察してるのに、お互いに一定の距離があって、ちょっとしたボディタッチもない」


 グラディウスもすぐに同意する。


「だろ? リーヴェスにとってあの女は一緒に育った兄弟のようなもので、大事な存在ではあるけど、それ以上ではないのよ」


 私もユベールと同じように、リーヴェスたちを見た。


 確かにユベールの言う通り、リーヴェスたちの間に一定の距離はある。

 リーヴェスから婚約者の女性に何かを話す様子はなく、ただ相づちを打っているだけのように見える。だが女性は、尊敬の眼差しでリーヴェスを見ながら、時には頬を赤く染め、嬉しそうに話していた。

 女性はリーヴェスの反応の薄さにたまに寂しそうな表情を見せる時もあるが、それでもリーヴェスのそばにいられることを嬉しく感じているようだ。


 他者から見たら、バスチアンに片思いしていた時の私もあの女性のように映ったのかな、と思うと、楽しかったはずの過去が蘇ってきてつらくなった。

 私の恋は叶わなかったけど、あの婚約者の女性は、リーヴェスのそばにずっといてほしい。


 時おり自分の世界に入りながらもリーヴェスたちを見続けていたら、ふとリーヴェスの顔色が気になった。


「ねぇ、リーヴェスの顔色悪くない?」


 リーヴェスたちの仲をいかに引き裂くかを話し合っていたユベールとグラディウスに、私は声をかける。


 最初はリーヴェスの美しさにばかり目が行って気づかなかったが、よくよく観察してみると、リーヴェスは何かに耐えているようなつらそうな表情を見せる時があった。


「リーヴェスはオレを継承してから、ずっと不調なんだ。邪気がどんどんまとわりついてきてて、もう限界なのさ。明日死んじまうだけある」

と、グラディウスがいつもの軽い調子で教えてくれた。


「何あれ?」


 隣のテーブルに座っていた女性の声が聞こえてきた。急に店内がざわめき始める。

 周りを見ると、みんな同じ方向を見ていた。みんなの視線の先には、リーヴェスたちの座っているテーブルがある。


 リーヴェスと婚約者の女性の間に、黒い霧のようなものが集まっていた。何度まばたきして確認しても黒い霧はそこにあるので、見間違いではないようだ。


 黒い霧は集まることで黒い塊になり、渦を巻きながらさらに大きくなっている。


「来たか」

とユベールがつぶやき、静かに席を立った。ユベールは私を守るかのように、リーヴェスたちと私の間に立ってくれている。


「イレーヌ、離れろ」


 リーヴェスは言うと同時に椅子から立ち上がった。店内のざわめきが、少しずつ悲鳴に変わってきている。


 婚約者の女性は驚きのあまり体が動かないのか、こわばった顔で椅子に座ったままだった。

 リーヴェスは黒い渦を注視しながらも婚約者に近づくと、彼女の腕を優しく引いて黒い渦から遠ざけた。


 少しずつ大きくなっていた黒い渦の動きが止まったかと思うと、渦の中から豊満な体つきをした黒髪の女性が現れた。女性の年齢は、少なくとも私より十歳は年上に見える。


 悲鳴が上がってもいいはずなのに、店内はなぜか静まり返っていた。誰一人として、何も喋らない。


 女性は大きな胸を強調するかのように胸の下で腕組みをし、妖艶な笑みでリーヴェスを見つめていた。

 もともと顔色の悪かったリーヴェスだが、女性が黒い渦の中から出てきて以来、さらに苦しそうな顔をしている。


「あのお色気ムンムンな女の人は誰?」


 これから魔物が出るとあらかじめ知っていたとは言えど、非常事態に私の心臓の鼓動は早くなった。


「あいつの名前はテネブライ。魔物の核の部分だ。あいつにはリーヴェスの攻撃でさえ効かねぇけど、魔物を全部倒せばテネブライも消える。そんで、ある程度邪気が集まって魔物が復活する時、テネブライも一緒に復活するんだ」


 私はユベールとグラディウスの二人に聞いたのだが、ユベールはリーヴェスたちを見つめたまま固まっていて、私の質問にわずかな反応さえしてくれなかった。

 一方グラディウスはテネブライの出現に焦っている様子はなく、のんびりとした口調をしている。グラディウスの声を聞くと安心できた。


 テネブライに続いて、私が森で見たのと同じ、黒色の生き物が渦の中から出てきた。


 相変わらず誰も叫ばない。店内は、近くの人が息をする音さえ聞こえるのではないかと思えるほど静かだった。


 幸いにも、出現したばかりの魔物はすぐに動く気配はない。


 テネブライはリーヴェスにゆっくり近づくと、リーヴェスの顔を自分の両手で覆う。


「ねぇ、私と一緒に闇の中で過ごしましょうよ。こんなに心に闇を抱いているのに、光を見ようと思うからつらいのよ」


 テネブライはなまめかしい笑みを浮かべながら、リーヴェスに言う。リーヴェスはテネブライの手を払うこともせず、ただ睨んでいるだけだ。


「やめて」


 リーヴェスの後ろにいた、婚約者の女性がつぶやいた。女性は、なんとか頑張って声を絞り出したような様子で、目には大粒の涙がたまっている。

 テネブライは意地の悪い笑みを浮かべながら、挑発するかのように女性を見た。


「何度も何度もしつこいな」


 リーヴェスがテネブライに吐き捨てるように言った。どうやらリーヴェスとテネブライは今日が初対面というわけではないようだ。

 リーヴェスの反応を見て、テネブライは嬉しそうに笑っている。


「えぇ、だって私、あなたが欲しいんだもの。何度でも誘いに来るわ。――暗闇の中で、二人で目を閉じていましょうよ。落ち着くわよ。何もつらいことなんてないんだから」


 テネブライはそう言うと、リーヴェスの背後に回りリーヴェスに抱きついた。リーヴェスの婚約者の目が殺気立つ。リーヴェスは顔をしかめているだけで、抵抗するような素振りは見せていない。


 私は周りを見渡した。店内の様子は異様だった。みんな苦しそうな顔をしているだけで、身動き一つしない。


「この状態が続けば、死人が出るのよね?」


 グラディウスが教えてくれたことを覚えてはいたのだが、いまいちまだ信じられていない自分がいて、私は再度ユベールとグラディウスに確認した。


「そうだ」


 ユベールはリーヴェスたちを見たまま、いらだった口調で言った。


「魔物はリーヴェスにしか倒せないのよね?」

「そうだ。昨日話しただろ」


 言うと同時に、ユベールは私の方を見た。店内は暑くもないのに、ユベールの顔は汗でびっしょりだった。何度も聞くなと目が私を責めている。


 ごめん、そんなに怒らないでよ、と私は心の中で謝った。実際に口にしてしまうとユベールを余計に怒らせてしまう予感がしたので、口には出さない。


「分かったわ」


と言うと、私は大きく深呼吸した。私のやるべきことは一つ。リーヴェスの浄化だ。

 人を避けながらも、リーヴェス目指して全力疾走する。


 私が近づいて行くと、テネブライが驚いたようにリーヴェスから離れた。


「しっかりしなさい!」


 リーヴェスに十分な距離まで近づくと、私は勢いよく跳び、リーヴェスを両足で蹴った。


 蹴られたリーヴェスは後ろに転び、私は華麗に床に着地する予定だったのだが、想像通りにはいかなかった。リーヴェスを蹴るところまでは上手くいったが、リーヴェスではなく私が後ろに跳ね返ることになった。


 驚いているリーヴェスと目が合ったかと思うと、急に視界が真っ暗になった。




「よくも邪魔してくれたわね」


 悔しそうなテネブライの声が聞こえてきた。声は聞こえているのに、姿は見えない。そもそも辺り一面真っ暗で、自分の手足さえ見えなかった。


「あら、あらあら……」


 急にテネブライが嬉しそうな声を上げ始める。


「なんだ、あんたにもあるじゃない、黒い感情が。変な力持ってるから驚いちゃったけど、あんたたち二人ともちょろそうね」


 私の黒い感情? あんたたち二人って、私とあと誰?


「リーヴェスの前にまずはあんたたちね。楽しみにしてて。その感情、私が増幅させてあげるから。もうあんたは、自分の心の闇から目が離せなくなるわよ」


 テネブライは声高く笑いだした。テネブライの高笑いは徐々に遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。




 目を開けると、私はなぜかお兄様の腕の中にいた。


「あれ? 魔物は? リーヴェスはどうなったの?」


 辺りをきょろきょろと見回すが、私はもうレストランにはいなかった。お兄様は私を抱いたまま街の中を歩いている。おそらく家に帰っている途中だと思われる。


「問題ないよ。リーヴェスが魔物を倒した」


 お兄様は心配そうな顔で私を見ると、口元だけ笑った。


「レティシアの活躍のおかげで、怪我人なども出なかったようだよ」

「そう、よかった……」


 安心したら、また急に眠くなってきた。


「お兄様、私ね、邪気を浄化する不思議な力があるみたいなの……。元気なことしかとりえがなかった私でも、役に立てることが……あったのよ……」


 お兄様に話したいことはいっぱいあるのに、まぶたが重くて目が上手く開けられない。我慢できず、大きなあくびをした。


「またあとで聞くよ。今はゆっくりお休み」


 お兄様の優しい声が聞こえてきた。

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