08 十年の片思い、散る

 「明日の朝また来る」と言っていた通り、私が朝食を終えて部屋に戻ると、ユベールが椅子に座って待っていた。


「窓の鍵が開いてたから、入らせてもらったよ」


 ユベールは悪びれる様子もなく言う。

 ふとユベールの手元を見ると、私が机の上に出しっぱなしにしていた本――『男に愛される女になる百八箇条』が握られていた。私は本をしまっておかなかったことを後悔した。


「こんな本読まなくても、僕が教えてあげたのに」


 ユベールは小馬鹿にしたように笑っている。


「まず、剣の稽古はやめること。一人で馬に乗るのもやめること。出かける時はドレスを着ること。化粧をすること。それから……」


 ユベールの口は止まる様子がない。


「私はありのままの私を好きになってくれる人がいいの」


 ユベールから本を奪おうとしたが、簡単にかわされてしまった。ユベールは本を開いて、私に見せてくる。


「ありのままの自分を好きになってほしいと思うより前に、まず相手に好かれる努力をしろ」


 ユベールは開いたページに書いてあることを私に読んで聞かせてきた。


 ユベールから本を取り返したいのに、上手くよけられてしまって、私の手は何もつかめない。

 ユベールは意地の悪い笑みを浮かべている。私が悔しそうにしている様子を見て、ユベールはさらに笑った。

 私をからかっている時のユベールは外面だけの笑顔ではなく、本当に楽しそうだ。


 ふと窓を見ると、馬車が門を通り抜けて庭に入ってきた。バスチアンだ。


「じゃあ、またね」

と言って、私は急いで部屋から出て行く。


「一時間だからね! それ以上は待てないよ」


 後ろからユベールの声が聞こえたが、私は聞こえないふりをした。


 いつもは自分で適当に髪を束ねているだけだが、今日はコレットに髪を整えてもらった。今さらながらコレットに髪をお願いするのはやや恥ずかしかったが、告白の気合を入れるために頼んだ。




 勢いよく階段を駆け下りると、すでに玄関にはお兄様とバスチアンと、それから見知らぬ女性がいた。


「レティシアは初めてだよな? 紹介するよ、婚約者のソフィーだ」

「初めまして、レティシア。バスチアンやカーティスから、あなたの話はよく聞いてるの。早く話したいなって思ってたのよ」


 告白するんだという私の決意はすぐに砕け散った。

 バスチアンが家に着いて早々、私は失恋してしまった。


 昨日の夜は、明日告白するんだと思うと、なかなか寝つくことができなかった。今日の朝も、告白が成功しますようにと何度も祈った。


「大丈夫だよ。レティシア、もうすぐ失恋するから」


 昨日のユベールの言葉が、繰り返し繰り返し私の頭の中に響く。


 私は気の抜けた顔でバスチアンとソフィーを見た。


 ソフィーは優しく私に微笑みかけてくれている。目を惹くような美人ではないが、彼女の笑顔は温かく、見ていて心が落ち着く気がした。どんな失敗をしても、彼女であれば優しく包み込んで慰めてくれるのだろうな、と思う。

 男性の一歩後ろを引いて歩くような、慎ましい女性の印象を受けた。


 少なくとも、私とは正反対の性格をした女性だということは間違いない。


「バスチアン、婚約者いたのね」


 なんでもっと早く教えてくれなかったのよ、と元気よくバスチアンの肩を叩きながら言いたがったが、そんな気にはなれなかった。

 私の唯一のとりえは元気がいいところのはずなのに、元気が出ない。


 私はお兄様を見る。お兄様はバスチアンに婚約者がいることを前から知っていたようだ。こんな幸せそうな二人を見せつけられるくらいなら、事前に教えてほしかった。


 私はお兄様に視線を送っているが、お兄様は私と目を合わせようとしない。


 バスチアンは嬉しそうな照れた顔で、ソフィーの腰に手を回していた。

 こんなバスチアン、私の知っているバスチアンではない。私はこの場に居続けるのがつらかった。


「バスチアン、ソフィー、婚約おめでとう。今日を楽しみにしてたんだけど、ちょっと急用が入ってしまって……。また今度ゆっくり会いましょうね」


 私は精一杯の笑顔で言う。きっとちゃんと笑えていないのだろうが、今は仕方がない。


 私はバスチアンたちの返事を待たずに、逃げるようにその場を後にした。

 とにかく走った。コレットに整えてもらった髪は、すぐにいつも通りのぼさぼさになった。


 門の外に着くと、ユベールが立っていた。非常に腹立たしいが、ユベールが必死に笑いをこらえているように私には見えた。

 ユベールは私と目が合うと、遠慮なく大きな声で笑い始めた。今まで見てきた中で一番いい顔をしている気がする。

 ユベールにつられて、グラディウスも笑い始めた。

 二人の様子を見れば分かる。ユベールとグラディウスは、玄関での出来事を隠れて見ていたようだ。


「告白するんじゃなかったの?」


 告白なんてできるような状況ではなかったことくらいユベールも分かっただろうに、それをわざわざ聞いてくるなんて意地悪な人だ。


 婚約前ならまだしも、すでに婚約をしている以上、私が好きだと告白したところで叶う見込みはない。相手から婚約破棄などされようものなら、家名に傷がつく。貴族は家名に傷をつけられることを、かなり嫌う。

 よっぽどのことがないかぎり、婚約破棄などありえないのだ。


 自分の気持ちを一方的に伝えて、バスチアンを困らせることなんてしたくなかった。

 私はユベールの不吉な予言通り、自分の思いを伝えることもなく失恋した。


「うるさいわね、婚約者紹介されてすぐ告白なんてできるわけないじゃない。――バスチアン、時々私の剣の稽古見てくれたり、パーティーより剣の稽古が好きな私のことを、おもしろい女だって笑ってくれたりしてたのよ」


 バスチアンとの楽しかった日々を思い返すと、今にも涙がこぼれ落ちそうになった。


「そりゃ、親友の妹が自分に好意を持って話しかけてきてくれているんだ、可愛がるよ。恋愛対象じゃなければ、剣が好きな女の子だって気にならない」


 ユベールは失恋した私を慰めてくれるような様子はなく、傷口に塩を塗り込むような厳しいことを言ってくる。

 私は言い返すことができず、ユベールを睨むのが精一杯だった。


「その男のこと、いつから好きだったんだ?」


 グラディウスは一時的に笑いはしたものの、すぐに笑うのをやめて、私に聞いてきた。私はユベール以外の誰かに自分の恋愛話を聞いてほしくなり、勢いよく話し始めようとした。


「十年よ!」

「じゅ、十年!?」


 グラディウスの声が裏返った。そんな私の答えは予想していなかったようで、グラディウスの動揺が伝わってくる。


「十年の間、いったい何してたんだ? チューくらいはしたか? オレ、そんな恋愛話聞くの初めてだ。詳しく聞かせてくれよ」


 グラディウスの無邪気な声が私の心を突き刺す。


 特に何もしてこなかったから、失恋したのだ。


 グラディウスの質問に答えるたびに、自分の心をえぐることになるだろうと分かったので、私は何も答えられなかった。


「グラディウス、お前が恋愛話が好きなことは知ってるが、もうすでに終わってしまったことを掘り下げても時間の無駄だ」


 ユベールの話し方には腹が立ったが、グラディウスの無邪気な質問攻めを回避できたことにはほっとした。


「お前、ひでぇこと言うなぁ」


 グラディウスは残念そうな声を出したあと、


「大丈夫だ、お前にはリーヴェスがいる。失恋を癒すには、新しい恋よ。リーヴェスに会いに行こうぜ。一目見れば、お前も好きになるさ。リーヴェス以上にいい男はこの国にはいないぞ」


と優しい声で私を慰めてくれようとしてくれた。


 私は自分の心にぽっかりとあいてしまった穴を、バスチアン以外の何かで埋める必要があった。不幸中の幸いにも、それはすぐに見つかった。――魔物退治である。


「もう恋は当分いいわ。早く魔物退治に行きましょう。魔物の被害なんて、私が出させないわ」


 私は剣の柄に手をかける。

 バスチアンのことを考えると胸が張りさけてしまいそうだったので、もうこれ以上は考えないことにした。


「昨日も言ったけど、魔物に剣は効かないからね? レティシアの仕事は、リーヴェスに触ることだけだ。いいね?」


 ユベールが心配そうに念を押してくる。


「……分かってるわよ」


 私は剣の柄に手をかけたまま答えた。ユベールは私の言葉が信じられないみたいで、不安そうな顔をしている。


「で、どこに行けばいいの?」


と私が聞くと、グラディウスが


「劇場だ。リーヴェスは今日、婚約者と歌劇を見る約束をしてる。歌劇の前にリーヴェスたちは飲食店で昼食を食べるんだが、そこに魔物が出る」


と教えてくれた。


「そうと決まれば、急ぎましょう」


 私は劇場に向かって走り始めた。後ろを振り向くとユベールが遅れることなく後をついてきていたが、彼の顔はまだ不安そうだった。

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