アルマの紫眼《しがん》

緋原 悠

序章 二人の物語

01 二人の出逢い

「レティシア様、どうかおやめください! また旦那様に叱られてしまいますよ!?」


「大丈夫よ! お父様が戻る前には帰ってくるから」


 私、レティシア・キルシュバオムは教育係であるポリーヌの制止を振り切ると、門の外を目指して馬で駆ける。馬に追いつけるわけなんてないのに、ポリーヌは顔を真っ赤にして追いかけてきている。


 私は幼い頃から乗馬と剣の稽古を日課にしていた。お父様は少し前まで「レティシアは馬に乗るのが上手いな」「その辺の兵士より剣を使うのが上手いんじゃないか?」と私をよく褒めてくれていたのに、私の嫁ぎ先があまりにも見つからないあまり、最近手のひらを返してきた。


 お父様は私の嫁ぎ先が見つからない原因は、私の日頃の行いにあると言う。何でも私が馬を乗りまわし剣を振り回す姿は多くの貴族に目撃されており、キルシュバオム家の伯爵令嬢はおてんば娘だと有名になってしまっているというのだ。


 私の嫁ぎ先が見つからずすっかり疲れ果ててしまったお父様は私に、「少なくとも嫁ぎ先が見つかるまでは、乗馬禁止、剣の稽古禁止」と要求してきた。


 大好きなお父様の言うことなので、私は嫌々従うことにした。馬に乗りたい気持ちや剣の稽古をしたい気持ちを抑え、朝から晩まで素直に部屋の中で過ごした。

 一日が経ち、二日が経ち……そして今日が三日目だ。


 頑張ったが、三日ももたなかった。ちょっと注意されたくらいで、人は簡単に変われるものではないらしい。


 門から外に出ると、門の近くに立っていた綺麗な青年と目が合った。すぐに通り過ぎたのでじっくりと確認できたわけではないが、彼は私と同じ、紫色の瞳をしていたように見えた。


 この国に住む人の瞳の色は大抵、青か緑だ。紫色の瞳はとても珍しく、お父様によると「紫色の瞳はわが家の家系にしか生まれてこない」らしい。

 紫色の瞳をしている親戚がいるなんて聞いたことはない。彼の瞳が紫色に見えたのは私の見間違いかしら。


「レティシア様〜!」


 後ろでポリーヌが叫んでいる。恐くて後ろは振り向けない。心の中でごめんなさい、と言って、私は森を目指した。




 わが国、ロクルテラ王国の歴史はあまり長くない。

 私たちの先祖は、災害や食料不足が原因で故郷を追われ、数百年前にこの小さな島にたどり着いたらしい。島は他の大陸から遠く離れたところに位置していて、当時は存在も知られていなかった。

 この島を奇跡的に見つけることのできた先祖たちは、それはそれは歓喜したらしい。島に先住民はおらず、自然豊かで気候も安定しており、自分たちが求めていたものがすべてあったためだ。


 私は王都に住んでいるが、ロクルテラ王国には今も多くの自然が残っており、家から馬で五分も走れば森に着く。

 森の入り口からさらに二十分ほど走ると大きな湖があり、湖のほとりには小さな小屋が建てられていた。

 私はその小屋の近くで、二日前までは毎日のように剣の稽古をしていた。小屋は誰が建てたのかよく分からないが、住んでいる人を見たことは今までない。


 いつもであれば森を走っていると野生の動物たちをよく見かけるのだが、なぜか今日は鳥一匹飛んでいなかった。こういう日もあるんだな、と不思議に思った。


 小屋に着くと、中をのぞきこむ。今日も誰もいない。私は大きく背筋を伸ばしたあと、剣の一人稽古を始めた。


 十分くらい経った時だろうか。


 風もないのに、急に湖の水が波打ち始めた。木々も揺れている。


 私は思わず剣を振っていた手を止めた。これ以上ここにいてはいけないような気がした。

 今日はもう帰ろうと馬の手綱を握ろうとした時、それは姿を現した。


 前方に、赤い目をした黒色の生物が見えた。それは私の身長よりも遥かに大きい、今まで目にしたことのない生物だった。猪に似ているような気がするが猪ではない。それは体中真っ黒で目だけが赤く光っていた。

 逃げろ、と私の本能が警鐘を鳴らす。

 私が乗ってきた馬は、走って逃げて行ってしまった。


 黒い生物の隣には、殺気立った男が剣を構えて私の方を見ていた。男は今にも私に切りかかって来そうな勢いだが、私はこの男に見覚えはない。


「あの、以前どこかで会ったことあったかしら?」


 剣を構えながら男に呼びかけても、男の反応はなかった。


 男が切りかかってくる。


 最初の一撃は剣で受け止めることができた。――とても重い剣だった。

 男の剣は重いわりに動きが速く、二撃目で簡単に私の剣は弾き飛ばされてしまった。

 男と私の力の差は明らかだった。


 男の目を見ただけで分かる、男は私を殺す気だ。もうだめかと思った。


 その時だった。一筋の風が私の横を通り抜ける。


 剣と剣とがぶつかり合う大きな音が耳に響いた。そしてその次に聞こえてきた音は、剣が勢いよく湖に落ちる音だった。


「何ぼーっとしているんだ、死にたいのか?」


 気づくと、一目見ただけでは男性か女性か分からないような中性的な顔立ちをした美しい青年が、私の近くに立っていた。女神のような見た目とは裏腹に、言葉には刺がある。


 私はこの青年に見覚えがあった。ついさきほど、家の門の前ですれ違った美しい青年だ。


「レティシア、走るよ!」


 青年は私を肩に担ぎ上げると、森の入り口の方へと走っていく。なぜかこの青年は私の名前を知っていた。


 黒色の生物も男も、私たちを追ってくる気配はなかった。


 青年は私を担いだまましばらく走り、男たちが追ってきていないことを確認すると私を下ろした。


「大丈夫? けがはない?」


 本心を隠すかのような作り笑顔で青年は私に言った。


 青年は着古された質素な服で身を包んでいるが、その服がかえって彼の美しさを際立たせていた。

 全体的にほっそりした体つきと、物腰が柔らかく上品な佇まいを見ると、彼が優れた剣の使い手というのはにわかには信じ難い。しかし、実際に危ないところを助けてもらったのだから、彼の剣の腕が立つことは疑いようもなかった。


「危ないところを助けてくれて、どうもありがとう。私は、レティシア・キルシュバオム。私の名前を知っているようだったけど……以前どこかで会ったことあったかしら?」


 近くで見ても、青年の瞳は紫色だった。うちの家系にしか紫色の瞳は生まれないとお父様はよく自慢げに話しているが、それは単にお父様が知らないだけのようだ。


 青年は急に真剣な顔つきになった。


「実際会うのは今日が初めてさ。僕の名前はユベール・レーヴェンツァーン。百年後の未来から君に会いに来たんだ」


 ユベールと名乗った青年は私の目をじっと見たまま、少しもそらさない。

 先ほどまでの表面だけ取りつくろったような笑顔で言われていたら、おもしろい冗談ね、と私は笑って受け流していただろう。しかし今の彼の目を見るかぎり、どうも嘘を言っているようには見えなかった。


「あなた、私と同じ紫色の目をしているけど……もしかして、私の子孫か何か?」


 ユベールは少し驚いた表情を見せたあと、また真剣な顔に戻って話し始めた。


「そうだよ、レティシアは僕にとって高祖父の母なんだ」


 高祖父の母? どれだけ離れているのかすぐ理解できず考えていると


「つまり、ひいひいひいおばあちゃんってこと」


とユベールは言い換えてくれた。


「ひ、ひいひいひいおばあちゃん!?」


 驚きのあまり私の声が裏返る。

 まだ十六歳なのに、同年代の男の子からおばあちゃんって言われるなんて。でもとりあえず、ひひひ孫が目の前にいるのだから私は結婚できるようだ。


「……で、どうしてひひひ孫が私に会いにやってきたの?」


 平常を装いながら尋ねたつもりだったが、ユベールは眉をひそめた。


「僕の言うことを信じるの?」

「え? 嘘なの?」


 私が思わず聞き返すと、「ははははは!」とどこからともなく笑い声が聞こえてきた。しゃがれてはいるが、少年のような勢いのある声だ。

 ユベールの立っている辺りから声が聞こえている気がするのだが、それらしき人は見当たらない。


「ユベールの腰元を見ろ」


 しゃがれ声の言う通り、私はユベールの腰元を見た。先ほど私を助けてくれた時に使っていた剣の他に錆びついた剣が差さってはいるが、剣以外には何もない。


 剣二本を見つめて私が固まっていると、ユベールが


「聖剣、グラディウスだ」


と言って、錆びている方の剣を鞘ごと抜いて私に見せてくれた。


「レティシア、よろしくな」


 信じ難いが、錆びた剣から声が聞こえている。

 グラディウスと呼ばれた聖剣の声はどことなく楽しそうだ。


「君がさっき遭遇した黒い生物は、僕の時代では『魔物』と呼ばれていた。魔物に近づくと人々は正気を保っていられなくなり、周りの人を攻撃し始める。君を襲った男も魔物の邪気にやられていたみたいだ。――魔物は今後どんどん増えていって、この国を壊していく。百年後の世界に、人間はほとんど存在していない」


 ユベールは私に近づくと、私の手を両手で握ってきた。


「そうなる前に、僕と一緒に世界を救ってくれないか?」


 私の手を握るユベールの手が、小刻みに震えている。彼の瞳に偽りの色はないように思えた。


 突拍子もない話だが、私はユベールの話を信じてみたくなった。わざわざ百年後の世界から子孫が頼ってきてくれたのだ。私の答えは決まっている。


「いいわよ。私に何ができるの?」


 私が答えると、ユベールはまた表情を曇らせた。どうやら、私が彼の言うことをすんなり信じ、こんなに簡単に協力すると言うとは思っていなかったようだ。

 グラディウスはまた、声を立てて笑い出した。


 ユベールは小さくため息をつくと、薄っぺらい笑顔で話し始めた。


「まずレティシアには、グラディウスの現所有者であるリーヴェス・オルヒデー公爵を落としてもらいたい」


「落とすってどこからどこに?」


 私は彼の言っていることがよく理解できず、聞き返した。


「リーヴェスを君に惚れさせてほしいんだよ。もう少し細かく話すと、リーヴェスに現婚約者との婚約を破棄してもらい、君がリーヴェスと結婚し、聖剣を子どもの代に継承させる。それが、僕が君にやってもらいたいことだ」


「リーヴェスって人と、け、結婚!? しかも婚約破棄までさせるの!? ちょっと待ってよ、魔物から世界を救うこととどう関係してくるのよ?」


 先ほどまでは問題なく話についていけていたのに、急によく分からなくなってしまった。


「さすがにこれは、二つ返事で引き受けてはくれないか」


 ユベールはいたずらっ子のような笑みを浮かべた。


「リーヴェスを一目見れば、レティシアも気に入るぜ。すっげぇ男前だし、剣の腕もピカイチだ」


 グラディウスはリーヴェスがいかにいい男であるかを、私に説明してくる。いくら単純な私でも、「いい男って言うのなら、とりあえず頑張ってみようかな」とは、さすがに思えない。


「リーヴェスと君が引っつくことで、歴史が変わるんだよ。かっこいい公爵と結婚できるんだ、いい話でしょ」


「私がそのかっこいい公爵を惚れさせることができるとでも思っているの?」


 最上の爵位である公爵家の当主であり、見た目もいい、剣も立つとなると、ただでさえ女性たちから絶大な人気があるに違いない。仮に婚約者がいなかったとしても、女性には困っていないだろう。


 一方私は、今まで十六年生きてきて、異性から好意を持たれた経験などない。残念ながら美人と呼ばれるような顔の作りではないし、着飾ったり化粧をしたりするのも息苦しくて苦手だ。


「レティシアだったら、リーヴェスも気に入るさ。自信を持て」


 私はユベールに尋ねたのだが、グラディウスが代わりに答えてくれた。グラディウスの声は無邪気で、本当にリーヴェスが私のことを気に入ると思っているかのようだった。


 ユベールは少しの間黙っていたが、

「やってみないと分からない」

とだけ答えた。


 口を開こうとしたところ、体の力が急にふっと抜けた。力が抜けて初めて、今まで身体中に力が入っていたことに気づく。魔物と遭遇してからというもの、私の体はずっと緊張状態にあったようだ。


 いきなり視界が真っ黒になった。

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