誰のためでなく 僕らのために

行方不命

第1話 芳賀家

 無機質な灰色の直方体が等間隔で並んでいる。どこへ行っても普遍的な風景になる団地群。

 今日9月1日は学校の始業日だが、子供達の声はしない。まだ残暑厳しく、蝉の気だるそうな鳴き声が聞こえる。ここ日本。それも人口が集中する東京でも高齢化と少子化は進み、この下町の公営団地もその縮図となっている。
 その直方体の中で、ひときわ側壁に毛細血管のような亀裂が入った棟がある。その亀裂がぎりぎり届かない、最上階、5階の一室の中は騒々しかった。

「は・な・せ・よー!」一語一語と連動して、三男で小6のたけるの脚を蹴り押す、次男のわたる、中3。航は布団の上に座って、尊は立ち上がって航の左手を右手で引っ張っている。航は細く、小さく、非力。片や尊は柔道をやっているだけあって、体躯が大きく、航を腕力で上回る。


「や~だ〜よ〜」兄をなめきって、言い放つ。すると航は更に足を押し付け、自分の腕を引っ張る。と同時に尊が手を離す、案の定思いっきり航の上体は、所々穴が空いて綿の飛び出た薄いせんべい布団の上に、頭も一緒に叩きつけられた。
 「痛ぇー!」頭を抱える航。「ばーか」と言い放ち、食卓へ向かう尊。どっちが年上だか分からない。
 

 その乱闘の舞台となった寝室の襖を開けると、狭い居間があり、中央に長方形の座卓がある。その窓側の短辺に、窓から射す朝日を背中に受け、寝癖で千手観音の様に乱れ立つ金髪の毛先を後光のように光らせ、目の前に置かれたコップに波々と注がれた牛乳を飲もうもしている男子がいる。この家、芳賀家の長男、ひかる、高校3年だ。左手で毎朝の儀式かのようにおもむろにグラスを掴み、口に運び飲み始めた。ゴクリ、ゴクリと音を立て、喉仏を上下に大きく動かしながら、どうやら一気に飲むようだ。そこへタイミングを見計らったように、尊が襖を勢いよく開けて、仁王立ちになっている。下半身裸で。
言わずもがな光はあともう少しで飲み干せた牛乳を思いっきり飛散させた。
「やったー!」と歓喜する尊。その後ろの布団の上の航はガッツポーズ。光はまたやられたと、怒るよりもうなだれながら、「ふざけんなよ~」と言いつつ自分の近くに置いてある、光専用の台拭きで、散った牛乳を拾うように丁寧に拭いていく。そして何もなかったかのように「お前たち、早く飯食えよ」と言い放ち、寝室へ行って三人分の布団と寝室の隣の部屋の布団一つを畳み始めた。
 その寝室の隣の部屋と布団の使用者である母、真理子が「出来たわよ」と台所からお盆に載せた朝食を持って居間に来た。もうその時は座卓の長辺に向かい合って航と尊が正座している。そこへ、ご飯、味噌汁、納豆がそれぞれの目の前に置かれた。
 「いただきます――」と言うと壁を背にしていた航は上体を捻り、尊は正面で手を合わせ、収納棚の上に置いてある父の位牌に向かって、ここは兄弟声を揃えて「――お父さん」。と少し黙祷してから、我先にと食べ始めた。母はいつも食事を作りながら、立ったままで自分の食事をつまんでいる。母がゆっくり座っているところをあまり見かけることはない。

 光の朝食は先程飛散してしまった牛乳一杯だけ。いつも遅刻ギリギリで、朝食を食べている時間がない。その割にはパンツ一枚の姿でハンガーに掛かっている学生服のズボンに丁寧に埃取り用の粘着テープをかけている。そんなことをしながら、台所に置いてある、全体は傷だらけで、背もたれの一部は欠けていたり、座面には子供達のいたずら書きがびっしりと詰まっている椅子を目にしていた。これによく父、高良たかよしが座りながら新聞を見ていたので、芳賀家では通称「父さんの椅子」と呼ばれている。その新聞と父は今はもう無い、居ない。新聞は芳賀家がたんに購読するのを止めたということではなく、この日本、ひいては世界の一部を残した国々では、ほとんどの新聞社が無くなってしまった。新聞記事をソースにしていたネットニュースが新聞を凌駕してしまったのだ。テレビもしかり。なので芳賀家にはテレビももう無い。それと父は五年前に進行性ステルス胃がんで他界した。
 ズボンに塵ひとつないことを確認して、父の座っていた椅子の上に立ち、ズボンが床に着かないように急いで履いて、椅子から飛び降り、その勢いで靴を履き「行ってきまーす!」と出ていった光の、靴だけは汚い。
 


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