第1章 火の複眼

DIVIDED #1

俺はただあいつの為を思って、会社の為を思って。


それがサラリーマンってもんだろ?


なのに、どうして?どうして?


初老の男が路地裏を息を荒げて走るのは町も寝静まった午前3時頃。




事は5分前。


今日は半期の予算達成を祝して初老の男は社内の管理職を任されている人間達と飲み明かしていた。


4軒目のキャバクラで解散になり、初老の男はそそくさと集団から離脱し、待たずにタクシーを拾おうと繁華街から外れた路地に入っていった。


今日は帰ったらそのまま寝よう。風呂は明日の朝でいい。


そう考えながら路地を進む。


暗い路地の途中で電柱に人が寄りかかっているのが分かった。


街頭がなく顔は見えないが、背丈からして男だろう。


丈の長いコートのフードを深く被り立ち尽くしている。


なんでこんなところに一人でいる?俺と同じ酔っ払いか?不審者じゃなきゃいいが。


初老の男はその男と目が合わないように前方3メートルあたりに視線を落とし、男の前を足早に横切る。


思わず横切る瞬間に男の顔が目に入ってしまったが、フードの中の口元はうっすらとにやけていたように見えた。


ふう、気味の悪い奴だった。早くこの場を立ち去ろう。ああ、早く家に帰って寝たい。


路地を抜けた先にいくつかの灯りが見える。


この通りは客を家路に帰したタクシーがまた駅前に戻ってくる際の通り道になっていて小銭を稼ぎたいタクシーの運転手は客がいれば乗せてくれることを初老の男は知っていた。


「佐々木・・・。」


名前を呼ばれた。


初老の男の名を呼んだのは先程のコートの男だった。


振り向くがコートの男の顔は見えない。


「人がクソみたいな暮らしをしてるってのにこんな時間まで食って飲んでなんていいご身分だな。」


一体、何を言っている?


コートの男はぶつぶつと言いながらこっちに向かってくる。


「誰だ、あんた?人が働いた金で飲み食いしようが俺の勝手じゃないか!」


佐々木は自分の中での正論をコートの男にぶつける。


コートの男は立ち止まり、少し間を置いて語尾を荒げる。


「お前のその自分勝手な物言いで俺がどんな思いをしたのか知っているか。」


コートの男はフードを下げ、佐々木に顔を見せた。


「・・・お前は確か、あ、あ、荒巻?そうだ、荒巻だ。なんなんだ、一体。こんなところで!」


佐々木はコートの男の正体を、さらに自分の元部下だと判明するとさっきまでの態度から180度反転し、高圧的に。


荒巻という男は佐々木の態度の変容を少し笑った後、両の手のコートの袖を捲り始める。


「まあ、いい。あんたは今日ここで死ぬ。それまでに今までのお礼をさせてもらうよ。」


物騒な言葉を聞いた佐々木は、ほう、よく言ったもんだな。と自分より少し背の低い荒巻を見下ろすように顎を上げながらスーツのジャケットを脱いで勢いよく地面に叩きつける。


「いい度胸してるな。荒巻。これでも俺は空手黒帯だぞ。現役の時よりかはニブッちゃいるがお前如き相手じゃねえ。今は部下でもねえからな。覚悟しろよ。」


佐々木は荒巻に向けて臨戦態勢の構えを取る。


ーーーボウッ!


突然、佐々木と荒巻の間にあるダンボールが勢いよく燃え始めた。


佐々木は2、3歩後退りしてしたダンボールに目をやる。


「これが数分後のあんたの姿だよ。安心してくれよ。苦しんで死ねるように威力は調整してやるから。」


佐々木は状況を理解できない。なぜ火事が起きたのか。まずはこの揉め事はいい。消防車を呼ばねば。


まあ、一先ず落ち着けよ。この後相手してやる。と荒巻に言って、叩きつけたジャケットの内ポケットに入っているスマートフォンに手をやる。


ーーーボウッ!


今度は拾おうとしたジャケットが自然発火したのだ。


うっ、と触れた火の熱さで手を引っ込める。


熱い!と火に触れた方の手に目をやると右手の親指以外の指の第一関節から先がなくなっていた。


佐々木はまた状況が理解できない。


ただの火だったはず。触れたのは一瞬だけ。それなのに指がなくなるなんて。


痛みに慣れていない人間程、強烈な痛みは遅延する。


「ううううううううう!!!」


佐々木の脳は脳内物質を大量に分泌し、細胞レベルで自身に危険信号を送ったのだ。


ショックと痛みで佐々木は左手で右手首を握り締めながら荒巻に背を向け路地を抜けた通りまで走り始める。

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