水踊姫
それは朝から雨が降る、ある日の午後のこと。
静けさの漂ういつもの室内。炬燵の上に乗せたマンガ本に視線を落とす私の耳に聞こえるのは、私と夜美の右方向にある窓の外から伝わる、規則正しい静かな滴のリズムと、私の横で眠る夜美の、同じく規則正しい呼吸音。
室内を照らすのは、窓の外から挿し込む鈍い光のみ。余計な光もなく、私の好きな音だけが漂う、心地よい空間。
私の腰の辺りには、夜美の愛らしい振動が伝わってくる。
その振動が、徐々に規則正しさを失っていく、眠り姫の目覚めが近づいている。
数度、不規則な呼吸音を感じた後、言葉を伴う明確な意思が、私に響く。
「……焼きそばが食べたいかも」
眠り姫の目覚めの第一声は、傍らに傅く王子に向けてのものではなく、自らの内面についてのものだった。
まあ、いつものことだけど。
「おはよう、夜美。焼きそば食べたいの?今から作る?おやつの時間ではあるけれど」
私は何度も頭の中で繰り返し、既に覚えこんでしまった二人の主人公の演奏を、その世界を閉じることで中断させる。
私にとって、とても大切な物語であっても、眠り姫の目覚めのご要望よりも勝ることはない、残念ながら。
私はこの空間のもう一つの流れを示す二本の針に目を向け、自らの言葉を確認する。
夜美の言葉は、タイミングとしては丁度良い。
「うーん、何て言うかちゃんとした焼きそばでなくて、むしろカップの焼いてない焼きそばが食べたい」
今日の眠り姫のご要望は、自らの調理の腕を伴う必要のないもののようだ。
だけども、一つ問題がある。私は夜美の方に顔だけ向き直る。
「構わないけれど、カップ焼きそばは夜美の家に買い置き無いよね?私の家にも無いと思うし。どうするの?」
私は先程から少しだけ勢いの弱まった、滴のリズムを聞きつつ、半ば答えを予測しながらも、夜美に問い掛ける。
「買いに行きたい。雨も降っているし、二人で傘差しながら買いに行こう!」
屈託の無い笑顔を私に向けて、魅力的な言葉を提示する。そう、夜美は少し弱めなぐらいの雨が好きなのだ。
もちろん、私もそう。
「解った、じゃあ行こうか」
「うん!」
善は急げというやつか、お互いの言葉が重なると同時に、私も夜美も出掛ける準備を整えだした。
玄関を出て、一階から外に出る所で夜美の持ってきた傘を受け取って二人の頭上に差し掛ける。夜美のお気に入りの、オレンジ一色の、二人が充分入れる少し大きめの傘だ。
隣に立つ夜美は、ふわふわもこもこのピンクのピーコート。夜美に良く似合っていて、私の好みに合っている、二人で買いに行ったいつものやつだ。
何だか嬉しそうで、鼻歌交じりでご機嫌だ。この曲は何の曲だったか。
私の方は、夜美のお母さんから貰った、黒のジャケットコート。夜美の好みに合わせた、いつものやつ。
滴から、細かな粒子に覆われたいつもの道を歩く。時折、広がる池を掻き分ける、夜美の足元からの和音が鼻歌に加わる。
いつものこと、夜美は水素を愛している。そして、水素に愛されている。
「夜美って、そう言うの大好きだよね。私にはとても無理」
団地内の商店街にある、行きつけの個人商店。時代の流れか、微妙にコンビニっぽい。
夜美が選んだのは、最近出たという定番カップ焼きそばの激辛版。加えてスープにいつものワンタンの坦々版。
「うん、辛いもの好きー、彩月は辛いものは全然ダメだよね」
その通り、私はどっちも夜美のチョイスの普通版。辛すぎるのはどうにも無理だ。
買い物を済ませて、我が家に戻る。団地内の商店街だから、片道五分程度の二人散歩。
周囲を満たす粒子は、濃度を変えることもなく、夜美の周りで踊る。
「ふんふんふんー。やっぱりーかやくは麺の下に敷かないとーダメだよねー」
妙な鼻歌交じりに、焼きそばの準備をする夜美。外で粒子を全身に浴びたせいか、さっきまでよりも更にご機嫌状態だ。
「たいせつなものーながれてしまうーきがしてー」
鼻歌に歌詞が混じったようだ、お湯を入れながら、どうにも最高潮にゴキゲンらしい。
このあと三分、シンクの前にて二人で待つ。
「湯切りのおとがー貴女を起こさぬようにー」
先程までの歌の、続きっぽいものを歌いながら湯切りをする夜美。そろそろお約束の。
べこんっ
「あはは、鳴った鳴ったー」
シンクが温度の変化で定番の音を出す。こんな音が鳴ったら、きっと夜美の歌に歌われている貴女も、起きてしまうだろうに。
私の分の湯切りも済ませ、こちらも出来上がったワンタンと、いつもの飲み物と一緒にお盆に乗せて、炬燵の上に置いたら、いつもの位置に座る。
「ソースとーふりかけとースパイス入れて、ハイ出来上がり!」
焼きそばの出来上がりと同時に、夜美の奇妙な歌も終了したようだ。
「じゃあ、いただきましょうー」
「はい、いただきます」
しばし、二人とも食に没頭する。育ち盛りゆえ。
「彩月、ちょっとこれ食べてみなよ」
そう言って、見るからに辛そうな自分の焼きそばを箸で取り上げて、私の方に示す。
「むうう、何か凄く辛そうな感じ」
しかめっ面を夜美の手元に向けながら私は答える。
「大丈夫だって、そんなに辛くないよ」
「本当かな、まあ一口だけなら」
そう答えると、私は口を開ける。
「うんうん、一口だけ」
夜美の手で、焼きそばを口に入れてもらう。しばらく、自分の口の中で味わってみる。
「!?!、辛い!すっごく辛い!」
思わず口元を抑える。感覚で言うなら火が出そうな感じだ。
「あはは、大丈夫彩月ーはいコーヒー」
夜美が嬉しそうに差し出してくれたいつものコーヒーを飲んで、ようやく一息つく。
「やっぱり夜美とは舌の構造が全く違うみたい。これはもう私には辛すぎて駄目」
「うーん、そんなに辛くないと思ったんだけど。ごめんね」
ちょっと心配そうな顔つきになって私の方を覗き込んでくる。少しフォローしてあげたくなったけど、もう二度と同じ事をしないで貰いたいので、何とか苦笑いしつつ、夜美の頭を撫でるだけで、我慢しておいた。
「いやー美味しかった。満足!ごちそうさまでした」
「うん、ごちそうさま」
二人とも食べ終わって、食後のお茶時間。ふと気づけば、窓の外から聞こえていた音は完全に聞こえなくなっていた。
夜美が視線を窓の外に向ける。
「雨、止んじゃったみたいだねえ」
ちょっと残念そうなのは、夜美にとって毎度のこと。夜美にとっては、古くからのお友達との、しばしのお別れなのだ。
私は夜美の残念そうな心音に先回りすることにする。
「ちょっと、散歩行く?夜美、雨の止んだこの時間も大好きだものね?」
夜美は、私の方に向き直って、いつものように嬉しそうに笑う。
雨が上がった後の、水素を含む空間もまた、夜美は愛しているのだ。
「うん!あ、久々に子供の頃に良く行ったあの神社まで歩いてみようよー時間的に暗くなる前に戻って来れる筈!後は、いつものスーパーとお店に寄って晩ご飯の買い物しようね。あとあと……」
眠りの姫から、目覚めて水に愛される姫に戻った夜美は、その心の赴くままに、自らの望む水素を求めて、王子を引き連れて、歩き回ろうと思っているみたいだ。
はい、姫さま。仰せのままに、貴女の愛する、水素を求めて。
終
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