雨色の宮
私はこの日を待っていた。あの人に会ってから、初めて迎えるこの日。私達にとって、超重要な運命の分かれ道。
今日は朝から、灰色の空が私達を見つめている。でも、空模様が余り良くない状況であっても、私にはそれほど関係無かった。
天の神の気まぐれに心を揺らされるほど、今日の私達は天の神を気にしていない。
今日の日付、2月14日。
この学び舎に集う子兎の群れの殆ど全てが、少なくとも今日だけは天の神ではなく、それぞれの地の神のみを心に留めている。
普段は真面目に本分を全うしているこの部屋の昼の住人達からも、今日に限っては落ち着き無さと、浮き足立つ心持ちを嫌でも感じ取れる。
私の斜め前に立つ、この部屋の導き手も、この空間に満ちる空気を感じ取っているようだ。
左に視線を向ければ、未だ灰色の空はその滴を落とすことなく持ち堪えている。
「今日は聖ウァレンティーヌス殉教の日。皆さんが一刻も早いホームルームの終わりを望んでいるのは私も理解しているので、今日はこれで終わりにしましょう」
子兎達から感謝の思いを含んだ黄色い歓声が上がる。私達の導き手は歳が近いからか、とても話が分かる。私も心の中で静かに感謝した。
「陽子ちゃん、また明日ね。はいコレ」
「さよーならー、私も」
「陽子ちゃん、あげる」
「陽子さん…私からも…」
教室を出て行こうとする私を、何人かの仲の良いクラスメイトが笑顔で送り出してくれる。それぞれ可愛らしい包みをくれたので、もちろん私も笑顔でお返しを渡す。
「ありがとうみんな。また明日」
彼女達もまた意中の相手との逢瀬が待っているのだろう。その背中を押したい、応援したい気持ちでいっぱいだ。
先ほどもらった包みを確認しつつ、鞄に入れつつ足早にいつもの場所に向かう。
一つ妙に目立つ包みがあった。あの娘は手先がとても器用だから、似たような包みでも見栄えが多少違う。私好みの色使いで、私は少し嬉しくなった。
道すがらでも、顔見知りの子達から幾つか受け取った。その都度多めに用意しておいたお返しを渡す。
みんな私にも用意してくれるなんてとてもありがたい。みんなの意中の相手との幸せを心から祈っておいた。
いつもの中央ホールに辿り着くと、まだ月乃さんは来ていなかった。月乃さんのピアノも今日は閉じられている。
何人かの生徒がいて、可愛らしい包みの受け渡しをしている。ついでに私にくれる子も何人かいた。上級生もいたような気がする。お返しを渡しつつ、何とも恐れ多かったり、ありがたい気分になったりした。
ピアノの後ろにある十字架に切り取られた空は、まだ灰色の空。堪えきれなくなったようで、十字架は徐々に滴に濡らされて来ていた。
何となく、校内を月乃さんを探して歩いてみることにした。
中央ホールを最上階の中心とした中央棟内で、月乃さんがいそうな所と言えば…音楽室・図書室・美術室辺りかな…。
考えながら階段を降りる。まずは音楽室だ。
「月乃~?今日はこっちには来てないよ。空振りだね」
月乃さんはたまに合唱部の伴奏を頼まれたりしている。学校のオーケストラにも所属しているので、本命だったのだけど合唱部の部長さんの言う通り、空振りだった。
「月乃さんなら今日は来てないですよ」
美術室も空振り、美術部には月乃さんのお友達が多い。この副部長さんもそうだ。
「今日は本は借りに来てないわ、まだ教室にいるかもよ。私が出る時は少なくともまだいたわ」
月乃さんのクラスの図書委員の方だ。その言葉に従って、私達の棟とは中央棟を挟んで反対の、上級生の教室がある棟に向かう。
「音無さんならちょっと前に教室を出たわよ。どこに行くかは聞いてないわねえ…ごめんなさいね」
月乃さんのお友達の方だ。結構仲が良いみたいだけど今日の行方は知らないみたい。
その後、中央棟も上級生棟を一通り回ってみたものの、私の包みが可愛らしい包みと交換されるばかりで、交換出来なくなった後は増えていくばかりだった。来月は全員にお返しを考えないと。
私の大荷物に見兼ねたのか、手芸部の知り合いの女の子が可愛らしい手提げ袋もくれたのでそれに丁寧に詰め込んで持ち歩いた。
手提げ袋のお礼も考えておこう。
窓の外を見ると、弱めではあるものの、先程よりは滴の勢いが増しているような気がした。私はふと、HRの最後に先生が言っていたことを思い出した。
聖ウァレンティーヌス…月乃さんの事だからもしかしてあそこにいるのかも。
今回は空振りではなく安打を打てるような気がした、もしくは本塁打。
その場所は中央棟後方の中庭にある。白い十字架を戴いた純白の結晶。外壁だけでなく、扉も内装も白に包まれた、白色の聖なる宮。
そこの主もまた、あの場所と同じくあの人なのだ。
私は差していた青色の傘を扉の脇の傘立てに置くと、静かに扉を開けた。漏れ聞こえてきた音によって、そこに私の意中の相手がいることが私には解った。
今回は空振り三振とはならず、見事に本塁打を打つことが出来たのだ。
その空間は、前方左側に据え付けられたパイプオルガンから奏でられる響きに満ちていた。
この曲は前にも月乃さんに聴かせてもらったことがある。
音楽の父が作曲したという、名も無き音楽。音楽の父が残した数多くの曲の中でも、この曲が一番好きだと月乃さんは教えてくれた。
「名前もないのに、どう聴いても神か聖なる人々に捧げられたとしか思えない曲だから」
そう言って、月乃さんはいつもの笑顔を見せてくれたのを覚えている。
また少し強くなった、ステンドグラスに打ち付ける素朴な雨音が、パイプオルガンの荘厳な音と重なりあう。
月乃さんと音と、雨の音の共演。
私は足音をなるべく立てないようにして、一番前の席へ向かう。今日は私の音の出番はないのだ。
お祈りを捧げた後、静かに腰掛け、視線は真剣な月乃さんに向ける。月乃さんの音と姿と、雨の音のみに心を傾ける。
健の上をしなやかに跳びまわる月乃さんの指は、いつもとても綺麗だ。いつものように音に合わせて動かされる白い足も、とても麗しく動く。
少し固めの表情も、笑顔を絶やさないいつもの月乃さんとは、また違って魅力的だ。
ここで生まれ出る音は、ピアノの時の月乃さんの音と、少しだけ違う。ピアノの時は大体優しさが前面に出ている月乃さんの音だけど、今日はパイプオルガンのせいもあるけど、とても凛々しい。
私が聴き始めてから、5回ほど弾き終わると、月乃さんは満足したのか演奏を止めて、大きく息を吐き、猫みたいに伸びをした。
「う~ん、満足」
私は立ち上がって、この宮の弾き手である月乃さんに対して拍手を贈った。
「ありがとう、陽子。でも来るの遅ーい、私と雨の音、半分ぐらいしか聴いてなかったでしょ」
月乃さんは私の方に近づいてきながら、ちょっと怒った風にそう言った。半分ぐらいという事は、10回は同じ曲を演奏していたということだ。
月乃さんとしては今日この場であの曲を10回は演奏しないと満足できなかった訳だ。
「ごめんなさい。でも、学校中を月乃さんを探して走り廻っていたんですよ」
月乃さんが私のスカートと足を乗り越えて、隣に座る。
「でもねえ、今日は聖ウァレンティーヌスの殉教の日何だから、私がここで待っていることぐらいピンと来てくれないと」
そう言いながら、鞄の中からいつものように鼈甲の串を取り出して私の髪を梳かしはじめる。
「そうですね、以後気をつけます。月乃さんこれどうぞ」
私は髪を梳かしてくれている月乃さんの邪魔をしないようにしつつ、手提げ袋から今日一番の手土産を取り出す。
「わ、ありがとう。遅れたことは赦しましょう。私もちゃんと陽子の為に用意してあるよ、もちろん手作り!」
私の髪を梳かすのを少しだけ中断して、自分の手提げ袋から小さな可愛らしい亜麻色の包みを取り出した。
「あ、外側から既に可愛い」
あまりの可愛さに私の感情回路が反応した。月乃さんの笑顔がいつも以上に可愛く見えた。
「でしょう、陽子には和が似合うから今回も和の雰囲気にしてみました」
何だかお店で買ったものしか渡せない自分が申し訳ない。
「ごめんなさい月乃さん。私のは手作りじゃないんです。お母さんのお知り合いの方がやっている大好きなお店の一番私が好きなやつなんです。不器用なので手作りとか自分でラッピングするのとか苦手で」
自分で言ってて恥ずかしくなって、顔が紅くなっていくのが解る。そのまま俯き加減になってしまう。
「陽子が好きなやつなら何の問題もないよ~気にしなくていいって。あ、じゃあ来年は一緒に手作りしようか? その陽子の好きなお店にも一緒に行ってみたいし~」
そう言って、月乃さんは私の両手に挟まれて、スカートの膝の上に乗せられていたものと、自分の亜麻色の包みを交換した。
「綺麗なオペラ色、洋の雰囲気だね。私も家で食べるから陽子も家に帰ってから開けてね」
そう言いながら、私のものを自分で編んだという、手提げ袋に入れた。
「しかし、陽子も沢山もらったね…。その手提げ袋も何、貰い物?」
普段の表情に戻って、私の右側の手提げ袋を覗き込む。手は再び私の髪に伸ばされている。
「そうです、貰い物です。友達が大荷物を持った私を見兼ねたのかと」
言いながら月乃さんのものを手提げ袋に入れようとすると、
「そんな訳無い…それ…だし」
小声で月乃さんが何か呟いた気がして、
「え?」
思わず聞き返した。
「あ、私のは陽子の鞄に入れてね」
そう言うと、私の髪をまた梳かし始めた。
良く聞き取れないままだったけど、ひとまず月乃さんのものを鞄に入れた。
「陽子、三つ編みにしてみようか取り敢えず左側に一本だけ」
言い終わらないうちに、手早く編み始める。私の答えはもちろんイエスなので返答は不要だ。でも、
「はい、月乃さんのお望みのままに」
そう答えておいた。
この白の宮に響く音が、いつの間にか月乃さんの音と雨の音から、私の音と月乃さんの音に替わっていた。
しばらくして、外に出ると、まだちょっとだけ小さな滴が落ち続けていた。
「陽子、傘無いから入れて~」
私の青色の傘に月乃さんが私の左側に入り込んでくる。月乃さんの勢いで、私の三つ編みと、その先に結ばれた水色の蝶が揺れる。
私の髪を編み終わった後、月乃さんが自分が身に付けていたリボンを外して結んでくれた。
「今日は三つ編みとリボンまで、ありがとうございます」
「いやいや~良いよ。陽子の髪は綺麗だから何色でも似合う」
月乃さんがそういうので私も、
「月乃さんの髪だって凄い綺麗ですよ、今日もらったやつと同じ亜麻色」
そう言ってみたら、
「え、あ、そう、あ、ありがと…」
珍しく、あたふたして、ちょっと紅くなって俯いていた。いつもとちょっと違う感じでとても愛らしいのだけど、おかげで何だかクロス歩道橋の分かれ道まで無言になってしまった。いつもとそう変わらないやり取りなんだけど、何でか今日に限っては妙に照れくさい。私までまた月乃さんと同じ顔色になってしまった。昇降口で、私も月乃さんもまた戴き物がしこたま増えた。
タイミングが良いのか悪いのか、分かれ道の所で雨は無事に上がった。
この時期にしては珍しく、雨上がりに直ぐ晴れ間が見え始めている。空の色は既に青から藍に変化している。
「雨、上がっちゃったね。ありがとう、陽子」
月乃さんは、いつもの調子に戻って私の好きな、いつもの笑顔を向けてくれた。
「じゃあね、また明日」
「はい、また明日です」
いつものように、その後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
空にはもう、灯が点り始める。明日は良い天気になりそうな気がする。
家に帰って、月乃さんのものを開けてみると茶色い粉の付いた、丸っこいものがいくつも入っていた。
こういうのも作れちゃうし、本当に月乃さんは器用で何でも出来る人なんだな。
器用、で手提げ袋を思い出す。何をお返ししたら良いか、今度月乃さんに相談してみようかな。
そんな取り留めのない思考を巡らせながら、今宵の月を想いながら、聖ウァレンティーヌスの殉教の日の夜、私にとって超重要な日の夜は幸福に更けていった。
終
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