美少女になりたい!
ゆうすけ
「わたしも、美少女になりたいなあ」
「ほら、美少女って何かと得じゃん?」
カチカチカチ。
うつろに響くウィンカーの音に合わせて彼女はつぶやいた。
フロントガラスを流れる雨しずく。秋の長雨は静かに街に降り落ちる。雨水で歪んだ街の景色は、ワイパーが規則正しく元通りに戻して、そしてまた降りしきる雨に姿を歪めていく。
男は薄墨色の街中でハンドルを握りながら、前を走る宅急便のワゴン車のテールランプを見つめる。
「 ……なにを唐突に」
「いやさあ、美少女ってだけで楽な人生歩いていけるんだもん。甚だ納得いかないんだけどね、わたし的には」
男は左にハンドルを切った。軽くブレーキを踏んで、車を止める。視線の先で、長靴に赤い傘の小学生の女の子が横断歩道を渡っていくのが目に入る。陰鬱な景色の中でそこだけ原色の赤色が目を刺激した。男はブレーキに足を置いて、少し緩んだ視線でそれを見守った。
唐突に助手席の彼女が声をあげた。
「ほら、今のあの子もかわいい顔してるし。五年もすれば美少女とか言われて、ちやほやされて、クラスの男子からモテまくって、先生からは誉められて、大人から讃えられて、いい旦那さんつかまえて、幸せな生活を送って行くのよ。あー、なんか不公平極まりない世の中だなあ」
女の子が渡り終わった横断歩道を踏み越えて、雨水で黒ずむアスファルトの上を車を進めた。いつもより、心持ち遅いスピードでゆるゆると走らせる。シルバーのボディが道路の水たまりを踏みしめていく。
車外では、また雨脚が強まってきたようだ。
「わたしも美少女になりたかった! いや、今からでもなりたい!」
男は思わず吹き出しそうになるのを抑えた。昼下がりの駅前に通じる道の歩道は道行く人々で混雑していた。みな色とりどりの傘を差し、あるものは笑いながら、あるものはうつむいて足早に通り過ぎて行く。こういう雨で視界の悪い日は、ふとした不注意が事故につながりかねない。
「なに言ってるんだ。バカだなあ」
男の呆れた声を聞いて助手席の彼女は露骨にむくれる。
「バカってなによ。だいたいあんなおっぱいだけの女、さっさと別れちゃえばいいのに」
「それは言いすぎだろ。やめとけって」
「そう言ってあの女の肩ばかり持って! わたしのことなんてどーでもいいんでしょ!」
その時、鋭い彼女の声を遮るようにしてスマホがダッシュボードを震わせた。不快な重低音のバイブ音が車中に響く。
男はちらりとスマホに視線を走らせて、チッと小さく舌打ちした。しかし、彼女はそんな男の些細な仕草を見逃さなかった。
「あの女なんでしょ? なんで出ないのよ」
「今、運転中だ」
「あー、もう。あの女、ホントに腹立つ。あんな女のどこがいいのよ。掃除はしない、料理もろくに作らない、そのくせ文句は一人前」
いきり立つ彼女に向かって男は少しだけ唇をゆがめた。「そりゃ、お前だって大して変わらんだろ」と思ったが、声には出さない。理不尽に怒る彼女に正論は通じない。そんなことは百も承知だった。
その時、またスマホが震えた。ダッシュボードに共振したビビリ音を響かせる。ショートメッセージが画面にふわりと浮かぶ。
男はそれをちらりと横眼で見て、再び前方に注意を向けた。相変わらず視界はワイパーに拭われては振り落ちる雨に歪められるのを繰り返している。
「また、あの女? ホントしつこいわね。だいたいね、クラス一の美少女だったかなんだか知らないけどね、そんなことが何年も通用するとでも思ってるのかしら。頭悪いんじゃない? いい加減現実を見るべきよ」
「いや、それお前、ブーメランだろ。さっき今からでも美少女になりたいとか言ってたのはどこの誰だよ」
男は思わず口を挟んでからしまった、と思った。こういう火に油を注ぐようなツッコミは得てして悪い事態しか招かない。
「そんなこと言うの!! もうここで、いい!! 下ろして!!」
あー、やっちまった。男はため息をついた。仕方なく男は左のウィンカーを出して路肩に車を寄せた。もう駅まではいくらもない。
「じゃあね」
彼女は乱暴に助手席のドアを開けると持っていた傘を広げた。パッとモノトーンの町の中に、赤い傘の花が開く。
「おい、今日、晩御飯はどうするんだ?」
「お弁当持ってる、あっ! 忘れてきた。出がけにあの女と喧嘩したからだ」
ほらみろ、と肩をすくめた。男はギアをパーキングに入れてハザードを点けると、内ポケットの財布から五千円札を引き抜く。そして、身体をよじって女に手渡した。
「これ、持って行って適当になんか食べてきな」
「ありがと。恩に着ます。じゃ、行ってきます」
彼女は五千円札を握りしめると駅に向かって歩こうとした。その背中に男が声をかける。
「あ、それとな、あの女とか、おっぱいだけとか、掃除も料理もしないとか、母さんのこと悪く言うのもたいがいにしておけよ」
「ふん。もうお母さんのことは言わないで。わたし、ガチで怒ってるんだから」
「母さんも別にお前のことが嫌いで言ってるわけじゃないんだぞ?」
男の声に彼女は足を止めた。そして低い声でうめくように声をあげる。
「そんなことは、分かってる! 分かってるから腹立つの!」
「まあ、受験勉強頑張って来いよ。塾が終わったら迎えに来てやるから電話しな」
「はーい」
彼女は助手席のドアを閉めると、夕暮れの水たまりの歩道をその場に似つかわしくない軽やかな足取りで駅へと歩いて行った。
◇
車のスピーカーから声が流れる。スマホをブルートゥースに切り替えた男は、ハンドルを握りながらスピーカーに向かって話しかけていた。
「またくだらないことで喧嘩したのか。なんだかブチ切れてたぞ、あいつ」
「だって、夕方から塾に行くのに服の色がおかしい、派手すぎるって言ったらなんだかキレ出したから、私も意地になってね」
「クソくだらないじゃないか。いや、しかし、あいつも似てきたな。母さんの若い頃に」
「私はあんなんじゃなかった!」
いや、似たようなもんだ、と男は思った。
陽が落ちた道路には車のヘッドライトの列が並んでいる。
男はまだ通話がつながっているスピーカーに向けて声をかけた。
「ああ、それと、晩飯代、渡しておいたから。二人でなんか食べにいくか?」
美少女になりたい! ゆうすけ @Hasahina214
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