とある薬師の物語
餅実ふわ子
序
1
一陣の風が、彼の鼻先を掠める。
むせ返るような香り。濃厚すぎる緑風を受け、クレイは胸中にわだかまる落胆と諦めと安堵を、ため息にして吐きだした。
(やはり駄目だろうな。噂には聞いていたが)
クレイは胸元に下げている
服の下に時石を仕舞いながら、前方に見えるこんもりとした森に目を向ける。風に靡く木々の枝葉。流れに乗ってゆったりと右へ、左へとその身を揺らし、嬉しそうに葉音を立てている。
その足を道に沿って進めながら、彼はぼんやりと昔の事を思い出していた。
――『いつか素敵な人と結婚して、可愛い子供を産むの。男の子と女の子、両方欲しいわ』
――『イリアが結婚ねぇ……。貰ってくれる物好きなんているのかなぁ』
――『あら失礼ねカイル。貴方こそ、そんな事言ってるうちは誰とも結婚出来ないわよ』
左手を腰に当てて、カイルを指さしながら忠告。俺は結婚なんかしねぇもん、とそんな言葉もどこふく風で学校帰りを歩く。二人のやり取りに笑いながら、クレイはそっとイリアを見ていた。
イリアはすごく可愛い子だから、大人になったらきっと綺麗な人になるだろうな。もしも僕でよければ、イリアとずっと一緒にいたい。その想いは、年頃のクレイはまだ口に出すことが出来なかった。
――『いってぇ、おいイリア、ほんとにその薬草で合ってんだろうな。すげえピリピリするぞ』
――『合ってるわよ! クレイと取りに行ったんだから間違いないわ』
――『効いてる証拠だよ。我慢だカイル』
カイルはよく怪我をしていた。打撲や擦り傷が常に体のどこかにあったのは、彼がまるで野猿のようにあっちこっちほっつき歩いていたからだ。新しい傷をつけたカイルを見るたびに、イリアは呆れと不満が入り混じった声をあげながら、甲斐甲斐しくカイルに手当していた。その為の薬草は村のあちこちに生えていたから、二人でよく取りに行ったものだ。
最もクレイにとっては、その二人の時間が一番の楽しみだった。カイルには悪いが、もう少し擦り傷を作ってくれないか、彼の為に用意した薬草が早く無くならないか、と待ちわびていたのは秘密だった。
――『大人になったら世界中を旅したいわ。カイルを手当てしているうちに、看護師やお医者様になってみたい、って思っていた事もあったわね……大人も何も、こんな見た目になってしまったのだけど』
皮肉を言いながら、口の端が吊り上がる。僅かに見える皮膚は皺だらけだが、皮膚は雪のように白く肌ざわりは滑らかだった。色が抜けて、すっかり白くなった髪は、絹糸のように美しかった。
イリア、イリアは綺麗だよ。見た目が老人のそれになろうと、クレイは本気でそう思っていた。だがいくら心から呼び掛けても、彼女は昔から唯一変わらない浅紫の瞳を悲哀の色に染め上げて、首を横に振るしか出来ない。
――『ねえクレイ、一緒に旅をしたいわ。この目で色んなものを見てみたい』
彼女は色んな夢を持っていた。女性らしい夢も、時に勇ましい願いも口にして。天使のように可愛らしい彼女は、お転婆で、好奇心旺盛で、優しい心を持った女の子だった。
最も、それらの願いが叶う事は、ついに無かったけれど。
「っ、うおっ!?」
思い出の彼方にいたクレイを現実に引き戻したのは、彼がその看板にぶつかった衝撃だった。そのせいで地中に埋まっていた看板がぐらりと後ろに傾くのを、急いで引き戻して地面に立て直す。
彼がぶつかったせいで、看板自体が少し壊れてしまった。木材で出来たそれは苔むしており、ところどころ腐りかけている。だいぶ昔に作られ、以降そのまま放置されていたようだ。
【アデル村 入口】
それでもその文字は読めそうだ。村名が完全に現れるまで、文字にかかった苔を毟り取る。
ぼうっとし過ぎた。看板は視界の中にあったはずなのに、まさかぶつかるまで気が付かないとは思わなかった。どれほど物思いに耽っていたのかと、軽く頭を振って息を吐いた。
(まあそれも仕方ないか。やっとこの村に辿り着いたんだもんな)
道のりは長かった。いや、多分普通の男性ならクレイの故郷からアデル村までは真っすぐ進めば一週間で辿り着くのだ。
しかし彼は昔から、運動するよりも部屋で本を読む方を好んだ。故郷を出た当初は基本的な体力や筋肉が成人男性に比べて劣っていただろうし、何より一度も故郷を出た事が無かった彼にとって、この世界がどれぐらい広いのか、文字通り未知数だった。
アデル村を最終地点と定めたのはいいが、地図も無く外の世界の知り合いもいない状態で、そこに至るまでの過程に何がどれほどかかるのか分からなかった。
着の身着のままの格好でふらふらしていたところを、たまたま気のいい農夫に拾われ、基本的な装備だけ整えさせてもらった。長居しては迷惑なので早々にその元を去ったもののやはり地図は持たず、村や町を繋ぐ道に沿って西へ西へと歩き続けたのだ。
結局ここに来るまでに二ヶ月はかかっただろう。最初の頃は西に行き過ぎたかと思い引き返したり、やや北西に行ってみたり右往左往していた。途中で出会う人々に、アデル地方ならあっちだ、こっちだと道を教えて貰った。
そしてそんな中で聞いたのだ。アデル地方、アデル村の噂を。
「アデルに行くの? 聞いた話じゃ、もうあそこもダメだって噂だよ」
命が惜しけりゃやめとくんだな、行くなら人里には帰ってくるなよ。誰しもそう言ってクレイを見送った。
しかしその噂は、クレイにとってはかえって好都合だった。一人でひっそりと、禁忌の知恵と思い出を胸に秘め、彼女の傍に寄り添う。そう決めていたから。
しかしそれでも。胸のどこかで、アデル村がまだ村として存在していてほしいと、心のどこかで願っている自分もいた。
そこに人がいなくなるのは、死んでしまうのは、やはり寂しいから。
しかしクレイは、自分が抱える矛盾を鼻先で笑った。死にぞこないの成れの果てとも呼ぶべき自分が、こんな思いをするのは可笑しい。この世に未練を残して死んでいった者に対する冒涜と同等だ。
クレイは前に目を向けた。まるで碧のトンネル。人一人が通れる程の穴が口を開き、クレイを待っていた。陽光に葉が煌めいている。曙の色をした小さな花が、星のように散りばめられている。森の奥から、アデル村から、薫風が巻き起こる。実に爽やかな、心地いい毒の風だ。
迷うことなく足を進めた。一方通行の道のりだった。
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