乳酸飲料なダンディ
鈴木りん
Episode0 「ミクリル・ダンディ、誕生」
Section0-1 ミクリル・ダンディ、誕生
俺が目の前に現れると、その男――30代半ばの眼鏡の面接官――は、口がひん曲がるほどの苦笑を俺に見せた。
「あなた、本気ですか?」
午前10時の、
その面接会場の会議室で、男二人、1mほどの距離で向き合っている。
「もちろん、本気ですよ」
俺は、余裕たっぷりの笑顔と低く落ち着いた声で、彼にアピールした。
「うーん……」
首を傾げて唸る、面接官。いかにも、イラついた様子だ。
体を揺らし、「総務係長
「だってね、この面接は我社の乳酸飲料『ミクリル』を企業や一般宅に毎朝訪問して販売する『ミクリル・レディ』募集のためのものなんですよ。45歳の――こう云っては何ですが、あなたのような
そう来ることは予測していた。
ここが、勝負時だ。
「何を云うのです! あなたは、男性蔑視ですか? この男女同権の世の中で、どうして女ができる仕事を男がしてはいけないのです?」
「そ、それは……」
身を乗り出して憤慨して見せる。
安田は急に腰が引けてタジタジとなり、落ち着きのない動きの中、タラリと額に冷や汗を浮かべた。
「わ、わかりました、わかりましたよ……。申し訳ありませんでしたっ。
えーと……それでは改めてお名前と年齢、そして志望の動機を窺いましょうか」
「
「……ほ、本当に?」
「本当に」
「どこかの面接指南本のコメント、そのまま使ってません?」
「ま、まさか……。今のは、私の本心からの言葉ですよッ!」
――図星だった。なかなか鋭い男だ。
嘘がばれないよう必死に顔を固め、彼の眼をじっと見詰める。
と、まだ若いのに眉間に深く皺を刻みこんだ彼が、胸につかえた嘔吐物を無理矢理吐き出すように、云い放った。
「仕方ないな――苦渋の選択ですが、人手不足ですし。採用します」
「やったぁ、ありがとうございます!」
「でも、ミクリル・レディ――いや、男だから『ミクリル・ダンディ』とでもいうべきなのかな。決して甘い仕事では――」
説教染みた、くだらない内容になるであろう言葉を遮遮った俺は、こう切り出した。
「ああ、ああ。よーく、分かってますよ。早速ですが、一つだけお願いがあります。自分の担当エリアは、自分で決めさせて欲しいのですッ!」
「……あ、そう。うーん、もう甘くても甘くなくてもいいや。好きにしていいよ」
こうして俺は、『ミクリル・レディ』ならぬ『ミクリル・ダンディ』として、デビューすることになったのだ。
☆
どう見ても急ごしらえの、緑色の男性用ブレザーと縦縞のスラックス。
そんな制服を身に着けた俺が、大量の飲料が入ったカートをアスファルトの歩道で引き連れながら、颯爽とオフィス街を練り歩く。
すれ違う、スーツ姿のビジネスマンたち。冷ややかな目で、俺を見る。
だが俺を馬鹿にしたその態度は、OLたちの方がわかりやすい。
通り過ぎて暫くすると、俺に聴こえるように「何、あの人?」と噂話をし始めるのだ。
だが、そんな些細なことなど気にしない。
何せ、約一年ぶりにありついた仕事なのだ。
気持ち的には貼り切っているし、何よりこの仕事の目的が俺にはあるのだから。
――このエリアにはあの会社があり、そこにあの
カートをゴロゴロと転がしながらそんなことを考えているうちに、担当のエリアに到着した。ネクタイの曲がりと髪型を整え、一つ目のビル――まさにここが目的の場所――の守衛さんに挨拶をする。
「どうもぉ、ミクリルでーす。あ、お初ですね。私、今日からこのビルの担当になりました中川と申します。よろしくお願いしまーす。じゃあ……これは、守衛さんにオマケ!」
精一杯の笑顔を振り撒いた俺は、小さな窓の向こう側に座る初老のオジサンに、プラスチック容器に赤インクで印字された乳酸飲料を一本、手渡した。
「うわ、おっさんのミクリル・レディ!? いや、違うな。ミクリル・レディお兄さんだ……。世の中、変われば変わるものだな」
「あのね、どんどん変わってますよ、世の中は。オジサンがうつらうつらと昼寝している間にもね……。あ、それから、私は『ミクリル・レディ』じゃなくて『ミクリル・ダンディ』ですんで、そこんとこよろしくです!」
「あ、そう。まあ……どちらかというと、レディだろうがダンディだろうがそんなことはどうでもいいって感じかな。ご苦労さん、通って良し」
やや引きつった笑いを浮かべた守衛さんが、俺のビルへの立ち入りを許可した。
昨晩あれほど練習した、俺の眩しいほどの笑顔がきっと彼の警戒を解いたのであろう。俺はこれからやっていく自信をつけたようなそんな気持ちになって、ビルの中へと進んだ。
ゴロガラ、ガラゴロ――。
天井の高いビル空間で響く、カート音。
宇宙空間に飛び出すためにデザインされたかのような流線型のフォルムを持つエレベーターの昇りスイッチを押し、開いた扉の奥へと進む。やたらがさばるカートのせいで乗り込めなかった男が一人、俺を睨みつけたが気付かないフリをした。
――7階。
さすがは、最新型のエレベーターだ。
カート一杯の乳酸飲料がカタカタと揺れることもなく、緑の制服姿の俺と重いカートを7階へとスムーズに運び終える。
『ミリア電子科学工業 株式会社』
カートを従えて、俺は小奇麗な社名看板の前で仁王立ちの構えを取った。
会社入り口は、いかにも最新電子通信機器を扱う
「失礼しまーす」
いざ出陣――。
敵陣に切り込む武将になった気持ちで、可能な限りの猫撫で声を発しながら突き進んだ。
すると飛び込んだその先に、俺の制服と同様な配色の制服を身に纏った可愛らしい女性が一人、受付に座っているではないか。
――制服の可愛さは、断然俺の勝ちだな。
心の中の勝利宣言は、彼女には聴こえていないはずだった。
けれど彼女は、俺の姿を見たなり、まるでカリフォルニア産レモンを皮ごと丸かじりしたかのような引き
――美人のこんな表情も悪くない。
悦に入っている俺に、やや時間をおいて彼女が声をかけてきた。
「い、い、いらっしゃいませ……」
「あ、どうも。ミクリル・ダンディの中川です。今日からこちらの担当となりましたので、よろしくお願いします」
「……ああ、ミクリルさんの関係の方だったのですか。私は、てっきり変質者かと……。あ、いえ。最近は男性の販売員もいらっしゃるんですね……」
「ええ。いますよ、このとおり。勿論、変質者ではありませんから。時代は刻々と変わってるんです……。あ、そうそう。では、お宅にもお近づきの印としてこちら差し上げますね。どうぞ」
俺は調略のための貢ぎ物――プラ容器に入った乳酸飲料――を一本、彼女の目前に恭しく置き、それを進呈した。
「は、はあ……どうも」
ばっちぃものでも見るかのような、彼女の目付き。
――うーん、いい。
その視線に何故か快感を覚えた俺は、新たな境地に辿り着きつつあるようだ。
「では、お邪魔しまーす」
新たな境地は別として、そそくさと社内へと進もうとする俺に、ふと我に返った彼女が釘を刺した。
「あ、中川さん……でしたっけ。前の担当さんにも言ってありましたけど、社内は立ち入り禁止の場所もありますので、注意してくださいね!」
――そうなのだ。それこそが問題なのだよ、お嬢ちゃん。
俺は心の中でそう呟くと、飛びきりの笑顔を彼女に振り撒き、目指す
☆☆
そんなミクリル・ダンディのデビューの日から3ヶ月が経つ。
日々、ミクリル・ダンディとして担当エリアを歩き、たくさんの商品とともに俺の笑顔をお届けすることができたと俺は自負している。面接で係長に面と向かって云ってしまった以上、俺の入社志望の内容はきちんと守るようにしているのだ。
意外と俺は、律儀な性格なのだった。
しかも、俺の販売実績は好調だった。
男の販売員が珍しいかなのか、お客さんは俺から「ミクリル」を喜んで買ってくれる。
一応云っておくが、決して脅してなどない。
眉毛辺りに力を込めて精一杯の笑顔を浮かべながら、しばらくの間、相手の顔をじっと見つめているだけだ。
お陰で俺は入社間もない身ながら、いきなりのトップセールスに躍り出たのである。
入社直後には、あれほど俺に疑いの目を向けていた総務係長も、最近では手揉みしながら、俺にすり寄って来るまでになった。
勿論のことだが、好成績の秘訣はひとつではない。
それは、俺のずば抜けた行動力のお陰とも云えるのだ。
昨今は、“個人情報”何とかとか、“コンプラ”何とかとか、“守秘”何とかと云って我ら販売業者を締め出そうとする動きがあるのは否めない。だが俺は、そんなものに負けることはないのだ。もっと簡単に云えば、『関係者以外立入禁止』などという表示は俺にとって全く意味がないということである。
カートから小分けしたミクリルをキャリーバッグに入れ、小気味よい朝の挨拶とともにズンズンと貼り紙の先に進んで行けば、会議室だろうが役員室だろうが、どこにだって入っていけるのだ。
まあ……広い意味では、俺も関係者と云えなくもない訳だし。
だが相手も百戦錬磨の企業戦士たちなのだ。俺の行く手を阻む障害が全く無い訳でもない。「ちょっと、困ります!」などという
だが俺も負ける訳にはいかないのである――。
ちょっと高価な紙パック入りの乳酸飲料「ミクリル100」を相手の手を取って
すると大概、二度と俺には近寄って来ないのだ。
しかし――こんな俺の積極的営業活動も空しく、未だ当初の目的を達成できてはいなかった。つまりは、“彼女”と
――
忘れもしない。忘れるはずもない。それが彼女の名前だった。
ミリア電子工業の中枢「企画開発課」の主任で、その中心メンバーだ。
まさに絵に描いたような才女――という言葉が、彼女にはふさわしいのだ。
――今日こそ、勝負だ!
彼女の在籍する『部外者立入禁止』の企画開発課――俺の戦場――へ突入するため、俺は
と、いきなり俺の視界に現れたのは、紛れもない彼女――丸山知美だった。
予想外の出来事に、俺の自慢の挨拶も“どもり気味”になる。
「お、おは、よーご、ざいますっ」
「あ、おはようございまーす――って、中川さん、困りますよ! 何度も云いますが、この場所は部外者立入禁止なんですからねっ」
――やった! 彼女、俺の名前を憶えてくれた!
心の中で、小躍りした。
まさにこの時を俺は待っていたのだ。
遂に彼女が、俺という存在を認めてくれた瞬間を――。
彼女が俺に対する警戒を解いてくれたことも、確信できた。
その証拠は、俺に対して見せてくれた彼女の
俺を咎める言葉とともに彼女が見せてくれた透き通るようなそれは、どこかの街の有名な夜景のような
一瞬、全身の筋肉から力が抜ける。
年甲斐もなく我を忘れた俺は、真夏の直射日光の下に放り出されたアイスクリームのように全身がとろけていった。
「す、すみません……。すぐに出て行きますんで」
ゴツゴツと硬い足取りで彼女に近づいて行った俺は、ミクリルを二本、彼女の机の上に置いた。
みるみる頬の辺りに熱が帯びていくのを、感じざるを得ない。
「中川さん。私は一本で充分です。そんなに飲めません!」
「その追加の一本は、僕からの
「そんなことされても困るんですけど……。まあ、わかりました。ならば、今日は特別ということで遠慮なくいただいときますね」
「ありがとうございまっす!」
心も体も軽くなった。
だが、俺はプロのミクリルダンディなのだ。ここで立ち止まる訳にはいかない。他の社員さんにも、自慢の笑顔と商品をお届けするために鼻唄混じりで室内を回ってゆく。
いつもより人間が少ない気はするが、そんなことは気にならない。こうしている間にも、俺の視線は彼女の動きに釘付けだった。
そう……彼女の、一挙手一投足に。
パソコンのキーボードを打つ姿。
メールを見て、何やら呟く姿。
笑いながら同僚と言葉を交わす姿。
重要書類らしき冊子を見開いて、それを読む姿。
どれもこれも、俺にとっては大切なものだ。
と、そのとき室内に響いたのは、俺と同世代らしき男の声だった。
「おい、みんな! 今日は
やや怒気を含んだ声の主は、知美さんの上司である企画開発課の課長だった。
課内会議が入っていたとは知らなかった。どおりで課内の人間が少なかったはずだ。
そんな様子の課長を見た課員たちが騒然となる執務室内で、知美さんと同様、会議を失念していた人が会議室へと急ぐ。そんな男たちに負けじと、彼女の動きも慌ただしくなる。
何せ彼女は、この部署の
彼女がいなければ会議は始まらないと云っても過言ではない。
何冊もの提案書らしき文書を両手に抱え、慌てて部屋から出ようとする、彼女。
と、そのとき、彼女の小さな悲鳴が部屋に響いた。手にした資料の数が多すぎ、ドアの前でそのうちの一冊を、床に落としてしまったのだ。
今となっては、この部屋に彼女以外では俺しか残っていない。
彼女に声を掛けようと口を開きかけた、その時だった。
くるり、こちらに振り向いた知美さんが口を開いた。
「中川さん、すみません。この書類を拾って、私の机の上に置いていただけませんか?」
「ええ。勿論、いいですよ」
「じゃあ、お願いしますね!」
彼女が、小走りで部屋を後にする。
こうして俺は、部屋に一人、取り残されたのだった。
☆☆☆
地上40階――。
高さ100メートルをゆうに超える位置にある、俺の4LDKマンションのリビング。
午前中に仕事を終えた俺は、ゆっくりとした午後のひとときを過ごしていた。
ミクリル・ダンディの良い点は、早起きがキツイところを差し引いたとしても一日の早い時間に仕事が終ることだと思う。
だから、
夕焼けに照らされた部屋の白壁が、みるみる赤く染まってゆく。
まるで舞台装置のような自然の演出を楽しみながら、手にしたワイングラスをゆっくりと揺らして口へと運んだ。
リビングと、夕焼けと、ロマネ・コンティ。
それらすべてが、俺の大好きな色――赤色で統一された、そのときだった。
肌触りの良い牛革ソファーに深々と身を委ねた俺の口から、大きな溜息が漏れたのだ。
「はあ……。こんなことでいいのか? 俺はプロの産業スパイ。しかも一流の、だ。棚から
今朝のことが、重苦しく俺の脳裏に蘇る。
極秘情報獲得のキーマンとして、苦労して丸山知美という女性の存在を洗い出し、その会社の潜入になんとか成功したのが、三ヶ月前。
その後、彼女の一挙手一投足を秘密裏に観察してきた。
なのに欲しかった秘密情報は、彼女の方からあっけなく提供されてしまったのだ。
手にしたグラスの中で、ロマネ・コンティの赤褐色の液体が波打つ。
膝の上にある会議資料。今朝、入手したものだった。
社外秘と赤く印字された表紙には『ミリア電子科学工業 来期発売予定新製品に関する検討資料』と書かれている。
……もう一度云うが、俺は一流の産業スパイである。
当然、一流と云うのにはちゃんとした
俺の特殊能力――卓越した記憶能力――を使ったスパイ活動では、基本、証拠が残らないのだ。一度見た文章や図面、一度聴いた会話、一度嗅いだ臭いなど、決して忘れることはない。網膜、耳の奥、鼻腔に残った記憶は、いつでもどこでも、それを脳内再生できる。
こうして持ち帰った情報を暗号化したレポートにまとめてクライアントへと提供し、高額の報酬――能力に見合った当然の報酬――を得ている訳だ。
しかしながら。
情報を売って生業とする俺が云うのもなんだが、当てにならないのは情報である。
ミリア電子工業の機密に関するキーマンである彼女の情報は、当然、依頼主から得ていた。が――、その情報以上の彼女の美しさ、可憐さ、性格の良さに俺は驚愕した。情報とは、如何に当てにならないものであるか、俺は今回の件で痛感したのだ。
「まあ今日の所は、この情報を俺のところで
資料を両手でぐしゃりと丸めた俺は、それをリビングのクローゼットの中に叩き込んだ。
残ったワインを飲み干すと、これからのミクリル・ダンディの仕事に思いを馳せながら「明日も早起き頑張ろう!」と心に誓った俺なのだった。
【Episode0 End】
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