Fragment 2

「ねえパパ、退院したらハナミに行きたい」

 娘の言葉に、僕は興味のないふりをする。自分の心拍数が上がっていくのを感じ、ひそかに呼吸を整える。

「ハナミ?」

「昔のアニメで見たの。ピンク色の花の下で、お弁当を食べたりお酒を飲んだり」


「五月になればこの木にも花が咲くから、病院の中庭でお弁当を食べようか」

 彼女はありふれた橙の庭木を見上げ、木漏れ日に目を細める。

「だめだよ、ハナミはピンク色の木の下でするんだよ」

「そんなの、アニメの中にしかないんじゃないの」


 僕の言葉に、娘は

「そうかな」

 と車椅子に沈み込み、ひざ掛けを引き上げる。

 僕の言葉はいつも嘘ばかりだ。僕はそのピンク色の木のことを知っている。


 かつては多くの不幸をもたらした疫病も、今では短期間の入院で快癒するようになった。娘も退院後は普通の生活を送ることができるだろう。

 レッドゾーンにさえ近づかなければ問題ない。一般人には存在さえ知られていないのだから。


 翌日、娘の面会に行くと彼女は嬉しそうに

「パパ、ハナミの木の名前がわかったよ。サクラっていうんだって!」

 と言った。

「……だれがそういったの?」

「AIに聞いてみたけど、ペアレンタルコントロールのせいで教えてくれなくて」


「子供が知るのにふさわしくないんだろうね」

「でも、隣の病棟のおばあちゃんが教えてくれたの。おばあちゃんはね、昔ハナミをしたことがあるんだって」

「へえ」

 余計なことを教える年寄りを苦々しく思う。


「おばあちゃんが小さかった頃は、サクラは病院にも公園にも、あたりまえにあったんだって。どうしてなくなっちゃったんだろう」

「橙の花が綺麗だから、みんな植え替えたんじゃないの」

「そうかなあ、ピンクの花って絶対綺麗だと思うけど」


 僕は桜の美しさを知っている。レッドゾーンと呼ばれる、研究のためにわずかに桜が残されている地域のことも知っている。アニメで描かれるよりもっと淡く儚い、白に近い花の色を知っている。木肌のごつごつした質感を知っている。


 あっという間に散っていくその残酷な美しさと、花の終わりの若葉の芳香を僕は知っている。娘の入院の原因とその治療法を知っている。

 その疾患の治療法を確立し、花見という文化を滅ぼしたのがだれなのか、僕は知っている。


「退院したら図書館で調べてみる」

 彼女は僕をみつめる。その強さに目を逸らさないようにする。


 いつか娘は知るのだろう。自分の曽祖父の功績と、美しいものを滅ぼした罪を。それまでの間、僕は嘘をつく。僕の父がそうしていたように。

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