桜年代記

湫川 仰角

Fragment 1


 かつて桜には、女神が宿っていた。

 古事記によれば、名をコノハナサクヤビメといい、桜が咲映えるように美しい姿だったという。

 神話の時代から、桜は美しさの象徴だった。

 人々を誘惑する、或いは蠱惑的とも言える何かが、桜にはあったのだ。



 都内で働く医師であるS氏は、我が目を疑った。

 見目麗しく、院内でも蝶よ花よと可愛がられていた入院患者の少女が一人、中庭の桜の木に蹴りを入れていたからだ。挙句、咲き誇ったその枝振りを手折ろうとしている。

「こらこら、ダメだよ折っちゃ」

「……先生」


 彼女の病態は、易出血性疾患。

 血液の凝固作用が働かず、出血が止まらない。

 精密検査による確定診断後に対処したいが、彼女の場合は原因がわかっていない。

 S氏が務める病院には複数人、同様の患者が入院していた。

「桜って生まれた時から見てますけど、最近憎らしく思えて」


「咲くのも散るのも綺麗で、散った後も来年に思いを馳せさせるなんて、ずるい」

「桜には女神が宿っているんだから、バチが当たっちゃうよ」

 少女は不思議そうにS氏を見上げた。

「木花佐久夜毘売って名前」

「変な名前」

 笑い合う二人は度々、その桜の下で話すようになった。


 往々にして、二人の話は恋バナが多い。

「橙ってオレンジのこと?」

 その日は結婚について語り、海外で橙はプロポーズの証だとS氏は話した。

「橙の花を見たことは?」

「ない」

「いつか見せよう」

「それプロポーズ? ないね」

 そう笑い合った日の夜、彼女の容体が急変した。


 結果的に、危篤状態は乗り越えた。

 しかし予断を許さない状況に変わりはなく、疾患の原因が掴めないのでは手の打ちようもない。


 S氏は必死になって原因を探した。

 丁度その頃、同じく原因不明の易出血性疾患に罹る患者が増加している、と報道があった。

 それも、日本を中心に。


 桜は周囲の植物を毒殺する、そんな話を見た。

 当然人体への影響などないが、念のためS氏は病院のあらゆる桜を調べた。

 結果、毒性は異常値。その抗血液凝集作用は、人体への影響を無視できない。


 S氏は桜を全て伐採、後には橙を植えた。

 理由は、約束の樹だから。

 それだけだ。


 日本中を疾患が駆け巡る中、S氏の病院は桜を伐採して以来、複数の患者が回復した。

 治療できる病院の噂は瞬く間に全国へ広がる。

 桜の異常毒も、日本中の桜が異常という事実と共に公表された。

 ある新聞記事はこう書いた。

 美しさに誘惑されるまま、人は桜に近づきすぎた、と。



「桜病に対し、橙を植える意味とは?」

 神妙な顔の記者がS氏に問うた。


「守るべき人へおくるため」

 それは正しくS氏の心情だった。


「……患者さんに薬を届けるためだ、と?」

 だが記者には届かず、最終的な報道と人々の解釈は単純だ。


 桜を伐採し、薬となる橙を植えること。


 今や疾患は海を越え、世界に伝播した。

 対策も伝わり、やがて橙が世を満たすだろう。


 古事記では、女神は自身の嫌疑を晴らすため炎の中で子を産む。炎に巻かれた女神の行方は定かでない。


 桜が失せようと、S氏に後悔はない。

 守るべき人がいる。

 そこに疑いなどないのだから。

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