私たちは結ばない
ベランダを開けると、湿っぽい空気が顔にまとわりついた。牧村歩夢はサンダルをつっかけ、足を踏み出した。
「協定のこと、なんで知らないふりしたの?」
「別に知らないって言った覚えはないわよ」
三原満の電話越しの声を聞きながら、歩夢は目の前の一軒家を見た。隣同士の家のなかで、歩夢の部屋と満の部屋は互いに向かい合っているのだ。とはいってもそれなりに距離はあるし、カーテンは閉まっていて隙間からわずかに光が漏れているだけだ。あそこに満がいるのだと思うと、なんだか不思議だ。
「知ってるのに言わなかったんだから、隠したのと変わんないよ」
「歩夢だって言わなかったじゃない」
歩夢は無意識に前髪をいじった。ぴょんとはねた髪は、手でなでつけると一度はおとなしく下を向いたが、やがて不自然にほつれた。歩夢は己の運命に短い黙祷をささげ、さっと髪を弾いた。
「あのカエル、協定の証だと思う?」
「何の話?」
「今日話題になったカエルのキーホルダー。マスコット。いままで気にしたことなかったけど、夏帆のやつはリボンがついてなかった。誰が付けたの?お姉?だったらどう考えても、協定の証なんじゃないの」
歩夢はため息をついた。
「完全に油断していた」
「なんの話?」
「満と紳士協定を結んだらそれで終わりだと思ってた」
前髪は、うっすらかいた汗と湿気で完全に手に負えないことになっている。昼間はヘアゴムで結んでずっと上を向けているので、半端に癖が残っている。いや、逆だ。放っておくと半端に上を向くので結んでいるのだ。
「あの千鶴って子も、お姉のこと狙ってるんでしょ?みんなお姉のこと狙ってるんだ」
「湊が?」
「それから鴨川って先輩も。なんとなくだけど、お姉のこと調べてる雰囲気がある、多分。モリチサトとなんか話してたのを見たし」
「鴨川さんが?彼女、転校生だけど、みさとの仲はもう結構長いわよ?今更何を調べるっていうのよ」
電話越しの吐息に、少し考えるような間が感じられた。
「それで、全員と紳士協定を結ぶつもり?」
「だって、誰にもお姉を奪われたくない。満だってそうでしょ?」
「私はそんな協定、結ばないわ」
満の落ち着いた声が妙に気に障る。自分の幼稚さを思い知らされているみたいだ。対抗するみたいに、せめて声のトーンを抑えてしゃべることにする。
「もう何回も拒否されたもんね。だから普通の約束でいい」
「そうじゃないわ。私が言いたいのは……」
++++++
歩夢の部屋のガラス戸が閉められる音を聞き届けてから、牧村美咲は、堅くなった腰を浮かせて立ち上がった。観葉植物の陰から満の部屋の窓を盗み見る。実は向こうからはずっとこっちが見えていたのではないかと疑う。電話の声は聞こえなかったが、歩夢の話し相手が満であったのは明らかだ。
そんな会話を聞こえるところでするな、バカ。
泥棒の気持ちでこそこそガラス戸をくぐり、閉める。ノックの音に部屋の扉を開くと、案の定歩夢が立っていた。
「お姉、金柄祭行くでしょ?」
挑むような目で訊く歩夢に、美咲は肯定の返事を返した。
「私と一緒にまわろう」
「え?」
「昔みたいに、私と一緒に食べ歩きしよう」
美咲はその目の語る内容を読み取ろうとした。
「千鶴と、一緒に?」
「千鶴先輩は抜きで」
美咲は頭をかいた。
「先に約束した方が優先に決まってるだろ」
そして、美咲はカエルのマスコットを突き出した。
「この子を代わりにあげるから、一緒に行ってこいよ」
歩夢はマスコットをむんずとつかむと、その拳を美咲の鎖骨のあたりに押しつけた。
「ぐえ」
愛想を尽かしたような顔を隠そうともせず、歩夢は部屋を後にした。美咲は息を吐きながらベッドに寝転んだ。マスコットのひもに指をかけて、天井にかざしてみる。ガラス戸の外はすでに日が暮れていた。蛍光灯の白い光の抵抗にも関わらず、家具などのちょっとしたかげに黒々とした夜の分身が張り付いている。
歩夢は美咲と千鶴の指切りを見ていたはずだ。だったらなぜ、今更後出しじゃんけんみたいなまねをしたのだろう。何を期待していたのだろう。りんごは、千鶴は、美咲になにを期待しているのだろう。美咲は無意識に指を遊ばせた。マスコットの紐が指に絡まり、あやとりのような形になった。美咲は心の中でカエルのマスコットに話しかけた。
カエルくん、私と協定を結んでみないか?これからは君を絶対に離さないと約束するよ。その代わり、君のことをずっと好きでいさせてはくれまいか。
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