姫百合協定つまはじき

青サンダル

魔法の帳簿

 防腐剤の匂いがただよう部屋の中、酒匂さこうりんごは歩いていた。停滞した空気を揺らす、自分ではない声が響く。

「世界にはまだまじないが存在するのです。その証拠に、燃え落ちずに残っていた講堂の鐘が、ぐわんぐわんと鳴り響きました」

 りんごは足を止めて目を閉じ、耳になじんだ声を感じた。学校図書館の中でおしゃべりするのは良くないと指摘しようとして、諦めた。どうせ利用者は他にいないと返されるのがオチだ。

「町の住人はそれぞれに顔を上げ、カルスタで一番高い塔を見上げました。そして、鐘のかたわらにカエルのエリオットがいるのを認めました」

 もしも、世界にまじないがなかったら、英雄が間に合わなかったらどうなるのだろうか。訊こうとしてりんごは諦めた。そういう茶化し方をする趣味はない。声の主である小山夏帆が、いくつかの本棚を挟んだ向こうを歩いているのが、声の響きで分かった。

 りんごは歩みを再開した。夏帆の声が遠ざかる。いかにも重たそうな全集本を支える棚に指を這わせて、つるりとした感触を感じた。ふと、りんごは手を止めた。彼女は、大きな本の間に生まれた奇妙な隙間を見とがめた。

 小さい頃に、『アイシャのお城』という絵本で読んだことがある。お城の書庫には大きく、古く、飾り文字だらけの煉瓦みたいな本が並んでいるが、その間に隠れるように、小さく薄い本がある。それは大昔の魔術師が残した人間の善意の帳簿で、アイシャ姫はその帳簿を頼りに善意の貸し借りを精算する決意をする。

 りんごは興味をひかれ、本の間を探った。想像したとおり、何かが挟まっている。りんごの指は、その皮のような感触に触れた。

 それは手帳だった。


 ++++++


 牧村美咲は、黒い表紙の手帳を眺め回して、神妙な顔を作ってみた。

「なんだろう。うちの生徒手帳っぽいけど、違う気もするよな」

 りんごたちの持ってきた謎の手帳が美咲たちの通う八ヶ瀬高校の生徒手帳ならば、最後のページに身分証として使うページがあるのだが、この手帳にはそれがない。はじめのページにもない。

「中は見ないの?」

 肩の後ろから声がして、りんごと夏帆がちらりとその辺りを見た。美咲は振り返ろうとしたが、相手の顔が近すぎてうまく視界に入らない。どちらにしろ、それが誰なのかは美咲にはとっくにわかっていた。

「見たいんでしょ?」

 なぜか少し甘えるような声で、三原満が言った。彼女は身を起こすと、座っている美咲から少し離れた位置に立った。すらりと高い背の上で、まとめた髪が踊る。美咲はそれを放置してりんごに向き直った。

「てかなんで私の方に持ってきたの?千鶴に見せに行った方がいいんじゃない?」

「さあ、なんででしょうね?」

 りんごは含み笑いで首をかしげてみせた。頭の片側で結んだ髪がすとんと落ちる。

「それより、中は見ないんですか?」

 満とりんごがにこにこと笑う様は妙な圧力を感じさせた。美咲は観念して、ページをめくった。こいつら、自分が好奇心に勝てないのならそう言えばいいんだ。

「全然使ってなさそうね」

 前半のページはスケジュール帳だが、満が指摘したように、古びた質感に比べてほとんど書き込みはなく、手がかりにはならないように見えた。

「待って」

 美咲の右手に満が横合いから手を添えて、ページの角をいじっていた親指をそらした。

「このページだけ角が折れてる」

 示されたページを開くと、どうやら文章らしいものが出てきた。美咲の表情を見たりんごと夏帆も手帳を覗き込んだ。あまり綺麗と言えない字を、美咲は読み上げた。

「ひめゆり……きょうてい?」

 『姫百合協定』と書かれた文字の下。さらに二つの文章が並ぶ。

「塗りつぶされてる、人の名前かな。『甲はナニガシに対して親友としての関係を保ち、それ以上の進展も後退をも望まないものとする。甲はナニガシに対する感情を永遠に秘密とする』」

 読み上げられた言葉を聞いたりんごと満は、何かを察して少し表情を険しくした。

「『同じく、乙はナニガシに対してこの感情を永遠に封じるものとし』……」

 文章を読み上げ続ける美咲を遮るように、りんごの右手がページに蓋をした。

「りんごちゃん」

 りんごは不機嫌な顔で「やっぱりやめましょう」とつぶやいた。

「秘密って書いてるんだから、秘密なんですよ」

「別によくない?他人でしょ」

 呑気な声を出した夏帆をりんごがちらりと見た。夏帆が弁解するように付け足した。

「名前は消してあるんだから、秘密だよ。言いふらしたりバラしたりできないじゃん」

 小動物じみたりんごの目線が美咲に向いた。言いたいことがあるのなら自分で言えばいいんだ。もう一度心の中で呟き、美咲は手帳を閉じた。

「とにかく、これは千鶴に届けるから」


 ++++++


 学校図書館のカウンターには、キーボードを叩く音が響いていた。湊千鶴のタイピングは早い。しかし、美咲が手帳を渡すと、彼女は器用に片手での一本指打法に切り替えた。

「古くてわかりにくいけど、これ、うちの学校の生徒手帳ですよ」

 千鶴がどのように手帳の種類を見分けているのかは、美咲には分からなかった。質問しようとする美咲を止めるように、図書館の扉が開いた。

「千鶴先輩いる?」

 手元の何かに視線を落としながらカウンター前に歩いてきた少女は、そこに美咲やりんご、夏帆がそろっていることに気付いて眉根を寄せた。

「どうしたのおそろいで」

 牧村歩夢は室内にいたそれぞれと視線を交わし、最後に美咲と目を合わせた。

「あのさ、もしかしてだけどさ、お姉ってば仕事を忘れてたわけ?」

 りんごと夏帆はもともと歩夢の交友関係で呼び出されたメンバーだ。そのくせ姉である自分だけが名指しされることが、美咲は不満だった。妹は返事をまたずに声を上げた。

「あーあ。せっかく捜し物を見つけてあげたのに」

「えっほんと?」

 夏帆がタックルする勢いで歩夢に飛びついた。歩夢は慌てて二人分の体重を支えながら、手に持っていた絵本を夏帆に押しつけた。

「合ってると思うけど。お姉たちが持ってるやつ、これでしょ」

 歩夢はため息交じりに表紙のキャラクターを指さした。二本の足で立って服を着たカエルが、自慢げにポーズをとっている。『カエルのエリオット』と題字がある。返事の代わりに美咲と夏帆はそれぞれ家の鍵や鞄を持ち出し、取り付けられたキーホルダーを見せた。

「あれ、りんごちゃんは?」

 夏帆が急かす視線をりんごに向ける。突っ立っていたりんごは、興味もなさそうに鞄をごそごそやり、筆箱を取り出した。やはり同じデザインのカエルのマスコットがぶら下がっている。三人が三つのマスコットを突き合せると、騎士の挨拶か何かのようだ。

「奇遇だよね。お姉と夏帆が同じ絵本のファンだなんて」

「違う違う、私はこれが絵本のキャラクターだってことすら知らなかったからね」

 今ここにいる顔ぶれは、夏休みに公民館で行われる朗読会に参加するために集まった。もともと図書委員である千鶴に回ってきた話に、友人の美咲と満が協力したのがことの始まりだ。いつのまにか美咲の妹である歩夢が参加し、ついでに歩夢の友人であるりんごと夏帆にまで声がかかった。

 話の流れで昔好きだった絵本の話をしたときに、夏帆がこのカエルのキャラクターの話を出したのだ。そして、美咲が家の鍵に付けているマスコットがそのキャラクターと同じであることに気付いたのが歩夢だった。『なんで自分で気付かないのさ』とは歩夢の談。

 短い間記憶を追っていた美咲は、りんごの声で現在に引き戻された。

「先輩は読んだことないんですか?この本」

「うん。何のキャラクターなのかとか、考えたことなかった」

「エリオットの絵本と言えば、結構有名ですよ。学校によって差はあるのかもしれませんが」

 歩夢から受け取った絵本を観察していた千鶴は、興味もなさそうにつぶやいた。歩夢が子供っぽく口を突き出しながら振り返った。

「そのマスコットっていつから持ってるんだっけ?」

「さあねえ」

 美咲はぶらぶらと首を揺らした。

「いつの間にか持ってたもんだから」

「いやそれは嘘だろ。ホラーかよ」

 歩夢が何気なく千鶴の肩に手を置き、その千鶴が動いたことに慌てたような仕草を見せた。

「それは去年の金柄祭りで手に入れたものですよ。美咲、くじ引きに当たったから」

 歩夢はふうん、と曖昧に納得した様子だった。

「そのさ、リボン」

 歩夢は美咲の持っていたマスコットを指さした。

「それ、誰かにもらったの?お姉のにしか付いてないよね」

「そうだっけ?」

 顔に近づけて睨んでみると、確かにカエルの首元には蝶ネクタイのように赤いリボンが結ばれている。しかし記憶をたどってもいまいち覚えがない。最初から付いていたようにも思える。

「どうだっけ、千鶴」

 千鶴を振り返ると、彼女は右手の小指を差し出していた。美咲はそれに自分の小指を絡めた。千鶴は腕を揺らしながら、冷めた表情に不釣り合いに明るい声を出した。

「ひーめゆーりきょーうてーい、うっそついたら……」

 千鶴はそこで歌を止め、首をかしげた。

「嘘をついたら、どうなるんでしょう?」

 小首をかしげる千鶴に同期したように、美咲の首が傾く。

「いや、そもそもこれ、なんの協定?」

 座っていた千鶴の、見上げるような視線が届く。その目の表情はメガネのフレームに遮られてよく見えない。

「美咲、今年の金柄祭り、いっしょに行きましょう」

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