8

 翌朝、希望島警察署の入口で掴みかけた糸は発見された。


 和田陽一は正面玄関へ向かう階段に放置されており、発見した署員も『気づいた時には横たわっていた』と言う程突然の事であった。


 顔は腫れあがり、何とか判別が出来る程に変形している。


 腿には釘が何本か刺さっており、痛ましい拷問の跡も伺える。


「息はある、救急車は」


「今呼んでます」


 刑事らの横を通り、憲次は和田の正面に立ち座り込む。


 あまりの痛ましさに目を背けていた丸山が気づき、恐る恐る近づいて来る。


「どうしたんですか」


「こいつ、昨日会うはずだったんだ」


 騒がしくなる周囲をよそに、憲次はひゅうひゅうと小さく聞こえる和田の呼吸音を聴きながらボロボロの姿を眺めていた。



 数時間前の事である。


 和田陽一は下ろしたてのジーンズとスニーカーを履いて、アパートを意気揚々と出た。


 混ぜ物を鞄に詰め、小金稼ぎの為に『FEVER』へと向かうのである。


 自身が住む小さなアパートの、狭くて息苦しい部屋の方を見て鼻で笑う。


 和田は先日、大きな仕事を成功し大金を得ていた。


 アタッシュケースだけを手渡され『中身は見ずに、取引相手に渡せ』とだけ告げられた、奇妙な仕事であった。


 映画の主人公なら中身を見て一悶着あるような話だが、和田は目先の金が一番大事な男であり、すんなりと届けて仕事を終えてここにいる。


 得た金で、遂にアパートの窓から見ていた高層マンションに引っ越す事ができる。和田は自分がチャンスを掴んだと確信していた。


 取引のついでに、目を付けていた女とも『仲良く』なるチャンスも掴んでおこう等と考えながら、いつも通り『FEVER』へ向かう。


 しばらく歩いたところで、信号に捕まる。


 この合間を利用して、和田は女を誘う事にした。


 スマートフォンを手に通話を始めた中、不意に横で信号を待つサラリーマンの姿が視界に入る。


 マンションの資金は手をつけたく無いし、ここで飲み代くらいは稼いでおくか――と和田は思いつき、サラリーマンの脇腹を勢いよく蹴った。


 少し地面を擦って横に倒れたサラリーマンの鞄を掴み、器用に片手で漁り始める。


「あ、ミーナちゃん? 今からFEVERで会わない? ちょっと飲みたい気分でさあ」


 サラリーマンは立ち上がり抵抗しようとするも、和田は漁る手を止めて顔面に一発いいのを喰らわせる。


「え? お金? 最近いい感じにツキが回って来てさあ、今も稼げたんだ」


 和田にとって、たまたま横に立った男の怪我より、自分の人生に関わる本名も知らない女の方が大事だった。


 和田は他者に対し、ひどく楽観的な男であった。


 だから、自身の危機にも気づかなかったのである。


 和田の脇に突如差し込まれた太い腕は、強制的に彼の体を立ち上がらせた。


 自身の置かれている状況に気づいたのは、眼前に黒いホッケーマスクを着けた男の姿を認識してからである。


 ホッケーマスクの男は少し首を傾げた後、素早く拳を振るった。


 拳の先が、和田の顎を的確に打つ。


 ぐるん、と黒目が上を向き和田の意識は途絶えた。


 ずれ落ちそうになる和田の体を、立ち上がらせた方の男が支える。


 背は高くないが、横幅のあるしっかりとした体格は脂肪のみで形成されているわけでは無いらしい。


 こちらは、妙にリアルな質感のウサギのマスクを被っている。


 ウサギマスクは和田を離れた場所に停めておいたビッグスクーターに引きずっていく。


 その一連の流れを、呆然と鼻血を流しながらサラリーマンが眺めている。


 ホッケーマスクは、和田の手から落ちた財布を手にしてサラリーマンの前にしゃがんだ。


 ゆっくりと手を伸ばし、サラリーマンの前に財布を差し出す。


「あ……ありがとう……ございます?」


 困惑を隠せないまま、サラリーマンが財布を取る。


 ホッケーマスクは深く頷いて立ち上がり、ウサギマスクの待つスクーターへ走る。


 手足を結束バンドで締められた和田をホッケーマスクが小脇に抱え、スクーターは変則的な三人乗りで走り去っていった。



「和田陽一本人で間違いないですね」


 病室のベットに寝かされている和田を横目に、丸山が告げる。


 発見の後、すぐに病院に運ばれた和田は治療を受け、包帯をあらゆる箇所に巻かれている。


 まるでミイラだな、と思いながら憲次と丸山はその場を離れた。


 病室前の廊下は奥まで果てしなく続いており、和田はエレベーターを降りてすぐの部屋に運ばれていた。


「奴の周辺から何か出たか」


 憲次は部屋から少し離れた場所に設置された長椅子に座り、問う。


 丸山は立ったまま、資料を見ながら説明を続ける。


「自宅を調べた所、薬は出ました。ヘロインにシャブ……純度の高いのは数種で、残りは混ぜ物ばかりです」


「新種は無しか。当てが外れたな」


「しかし、そんな重要な案件を何で下っ端に」


「さあな。大方、失敗してもすぐに切り離せる準備は出来てたんだろう」


 その結果があれか――と、丸山は顔面を包帯で巻かれた和田の姿を思い返す。


「そうだ、糸の方も結果出たんだろ」


「あ、はい。解析された成分からして……あれは正真正銘の、蜘蛛の糸です」


 犯人は巨大な蜘蛛の巣を作り、その手で弾丸を込めて被害者を撃ち殺した。


 明らかに異常で、非現実的な状況に憲次はめまいすら覚えた。


「とりあえず、弾丸と拳銃の特定だな。厄介な奴が出て来たもんだ」


 深く息を吐いて、宙を見上げる。丸山も釣られて緊張の糸が途切れたのか大きなため息を吐いた。


「憲次」


 遠藤がエレベーターから降りて病室の前で止まり、中の様子を伺う。


「よう。どうだった」


「店は今から行ってくる。お前のおかげだよ」


 座る憲次の肩を叩き、遠藤は好機を得たからか機嫌が良さそうに笑う。


「何か分かれば連絡くれよ」


「おう。それで奴は」


 憲次が和田のいる部屋を指差す。


「顎が砕かれてる。しばらくはまともな飯は喉を通らないよ」


 遠藤はふぅん、と呟いて室内を見ている。


 しばらく無言の空間が続いたが、エレベーターの到着音が静寂を破った。


 開いた扉から憲次も見覚えのある刑事が、険しい顔でこちらへ向かってくる。


 憲次は表情だけで何かを察し、今にも眠りそうだった目に怒りを灯した。



 本島側に近い場所にある武林駅は、改札を出て直ぐの通路に大きな時計台がある事で有名であった。


 周辺にはベンチも置かれており、待ち合わせにはもってこいの場所である。


 しかし、今日は時計塔を中心に広げる様にし、ブルーシートで改札前の大半が封鎖されている。


 シートの屋根も作成され、さながら昨日の海浜公園の再現にも思える状態であった。


 時計台の中心には、裂かれた繭が見える。


 糸は所々、血で赤く染まっている。


「間宮秀美、二十六歳。この駅は通勤で利用していたみたいだな」


 憲次が少々声のボリュームを上げ、叫ぶように資料を読み上げている。


 その周囲には、昨日現れた捜査班の面々が作業の手を止め見つめている。


 中心には、三雲が立つ。


「駅に向かう途中で襲われて、時計台に吊るされた……って所か」


 小さく息を吐いた後、目の前にいる三雲に憲次が歩み寄る。


 そして、間髪入れずに胸倉を掴んだ。


「二人目だ、これで二人目だぞ!! あれだけ言ってこのザマか!?」


 周囲は、憲次を制止しない。


 憲次は手に持っていた資料を掲げ、三雲の眼前に持っていく。


 急ピッチで調べられたものらしく、名前と年齢などの簡単な情報のみが記されている。


 資料の一番下には『配偶者アリ』の一文が見える。


「怒鳴らずとも、聞こえています」


 胸倉を掴んでいた憲次の手を払い、冷静に三雲が口を開く。


 何かを叫びかけた憲次だったが、くっと口を閉ざす。


 しばらくして、憲次が三雲にしか聞こえない声量で話し始める。


「マル被にヤクを渡した売人は、ウチの署に半殺しで送られてきた。この事件は何なんだ? 何が隠れてるんだ……!」


 瞬間、三雲の表情に変化が見える。


 驚き、の様にも見えた。が、憲次が読み取る前に立て直されてしまった。


「そちらに関係者が送られても関係はありません。これは我々の担当する事件です。……お引き取りを」


 ブルーシートの出口へ手を伸ばし、言い放つ。


 その言葉の節々に意図を感じ、憲次は何も反論せずに資料だけを乱暴に手渡して外へと出ていく。


「三雲さん」


 周囲で見ていた捜査班の一人が三雲へ駆け寄る。


 二十代前半と思われる、スーツがあまり似合わない血気盛んそうな青年だ。


「大丈夫だ。化学班の到着までに、我々の出来る調査を続けよう」


「はい」


 散っていく捜査班の面々の中、三雲は繭が回収されようとしている時計台の方を向き、ジッと見つめている。


 拳は、爪が食い込むほどに力強く握られていた。



 絵里は、自身が案外流されやすい人間なのだと気づきを得ながら、今日も強引に連れてこられたショッピングモールの長椅子に座っていた。


 目の前の雑貨屋で、小物を見てはしゃいでいる井出と真野を眺めながら小さく息を吐く。


「一緒に見ないんですか?」


 多々良が前方から声を掛ける。


 相変わらず温和な笑みを絵里に向け、少し距離を取って横に座る。


「ああいうの、良く分からないから」


「確かに、アクセサリーとか着けてる印象無いです」


 多々良は両手を伸ばし、持っていた缶を二つ差し出す。


 絵里はココアを手に取り、多々良は紅茶のプルタブを開けながら雑貨屋の方へ体を向ける。


「何円だった? 払うよ」


「え、いいですよ。奢ります」


「……何か、そんなの悪い。払う」


 立ち上がり、自販機の料金を確認するため歩いて行く。


「あ! 絵里! こっちこっち!」


 横切った雑貨店から、井出が手招きしている。


 横に立つ真野は派手な装飾の付いた髪飾りを絵里に見せ『着けて』と自身の髪に近づけて主張している。


 それらを一瞥して、何事も無かったみたいにに自販機へ向かった。


 金額を確認し、財布からぴったりの金額を取り出した時であった。


「二見さん?」


 振り向くと、目を丸くした工藤が立っている。


「また会ったね。買い物?」


「まぁ、付き合いで。そっちは?」


「画材。色々買っておかないと」


「そっか」


 絵里は会話しながら、座って待つ多々良の方へ向かう。


「お待たせ」


 振り返った多々良が二人を見て、首を傾げる。


「工藤君。小学校の頃クラスメイトだったんだ」


 傾げていた首がゆっくり戻りながら、多々良は感嘆の声を上げた。


「へぇ、そんな方が五十嵐に。すごいなぁ」


「二見さん、彼は?」


「私の護衛」


 特に表情を変える事も無く言い放つので、工藤は呆気に取られている。


 多々良は苦笑しながら、頭を下げた。


「真面目な顔で言わないで下さいよ……後輩の多々良です」


「なるほど、よろしく」


「……あ、メガネ君。ありがとう」


 絵里が握っていた金を多々良に手渡す。


「お礼より、ちゃんと名前で呼んでくださ――」


「あれ? もしかして工藤!?」


 多々良の返事がかき消える声量で、井出が後方から声を掛ける。


 工藤が振り返り、井出を見て驚く。


「井出か! 相変わらず元気な奴だ」


「印象変わったじゃん! 背伸びたねー」


「お前も相変わらず背が高いな」


「まだ伸びてるよ!」


 井出は頭に手を置いて、つま先立ちで更に伸びていることを表している。


「マジかよ」


 工藤の姿を。真野が不思議そうに見ている。


「あ、彼は小学校の頃のクラスメートなんだ」


 真野に近づき、絵里が説明をする。


 へぇ~と真野がうなずいている横に、買い物を済ませた武田が現れる。


「お、なんか人増えてる」


 説明疲れからか、絵里が少々気だるげな表情で武田を見ている。


「えっ、何すか。説明して下さいよ」


 賑やかな絵里達をよそに、外は暗くなっていく。



 遠藤は宣言通り『FEVER』にガサ入れを行った。


 コカインや混ぜ物、カジノを経営している確証は発見できた。


 が、新種の薬物は誰一人として口を割らない。


 これ以上は追及は難しい――と、数分前に受けた報告を憲次は反芻していた。


 店以外から手がかりを掴む。すぐさま次の行動へ移る為にスマートフォンに手を伸ばす。


「――俺は何も知りませんよ! それより奴は半殺しで見つかったんでしょ? 俺もヤバいでしょ……助けて下さいよ!」


 情報屋は憲次が切り出す前から、畳み掛ける様に救いを請う。


「知るか」


 吐き捨てる様に告げ、通話を一方的に終える。


 事件を解決する糸口が、次々と消えていく。


 憲次は疲れ果て、近くのベンチに腰掛ける。


 海浜公園に足を運んだのは、何か見逃しているものが無いかを確認しに来たのだ。


 不意に、また家に連絡を入れ忘れている事に気づいた。


 今気づかなければ、捜査に集中したまま次の事件現場である武林駅に向かっていたのは明白である。


「……とことん救えねぇよ、俺は」


 呆れた様に笑い、濃紺の空を眺める。 


 再びスマートフォンを手にした時、眺めていた風景に光の筋が通る。


「……流れ星様に、祈ってみるか?」


 馬鹿馬鹿しい――と一笑に付したのだが、異変に気づき体を起こす。


 流れ星と思っていた光は、熱を纏い落下している。


「な、んだ!?」


 光の先端は蠢きながら、公園内へ落下していく。


 轟音が鳴り響いたのは、それから数秒後であった。


 それと同時に、警告音が鳴り響く。 


『非常事態発生、園内の方々は焦らずに避難を開始して下さい。非常事態発生――』

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