白い花

迷想

第1話

白い花



「だからさあ、 マルコがお前はチビだからできないって。バスケットは背が高くないと話にならないとかさあ…ムカつくと思わねえ?あのヤロー」「それでさあ…」ぼくは学校から帰るといつもこうして姉さんに話しかける。ぼくたちは眼前に果てしない田園風景の広がる丘の石垣に座っている。視線を前に向けると点々とオルチャの丘陵の牧草を刈り込む農夫たちが見えた。ぼくは手のひらを目の上にひさしのように構えてみて、白々しくも呟いてみる。「もう草刈りの時期かァ…」毎日三十分ほど、晴れた日の散歩だ。


ぼくの会話に返事はない。それは姉さんが話さないから。ぼくの言葉はいつも宙に浮いて、着地することなく落っこちる。ぼくの姉さんは綺麗な人だ。腰まである長い銀髪で憂いを帯びた伏し目がちの瞳を持ち、大理石のような白い肌をしている。ただ、芽吹いたばかりの花のような唇からは何かしらの意味のある言葉がこぼれることはない。姉さんはとても美しいが、赤ん坊のようなことしか話せないのだ。


姉さんはぼくが物心ついたころからずっとこうだ。だから別段疑問に感じたこともない。両親に言わせると、姉さんは「神様のこども」なんだそうだ。人は皆、神様のところから生まれてきて、死んだあとも神様のもとへ帰っていく。ぼくの姉さんは生きているけど心の半分が神様のいる場所にあって、だから話しかけても何も反応しないし、はっきりとした言葉も話せない。姉さんは半分は父さんと母さんのこどもだけど、もう半分は神様のこどもなんだ。ただ息をして、ときにはゆらりと首を傾けたりすることはあるが、その目はいつもあらぬ彼方を見つめている。歩くことはできる。でも、目を離すとどこへ行ってしまうかわからない。着替えも食事もぼくの手伝いがいる。暖かくなるこの季節、葡萄畑に精を出し始める両親に替わって姉さんの世話をするのはぼくの役目だった。


「相変わらず怖えー。真っ黒だ。」帰り道、ぼくたちは町はずれの大きな橋を渡る。そこにはどす黒く渦巻く濁流を湛えた川が流れている。日々の日課の姉さんを連れての散歩の帰り道、橋の欄干からその川を眺めるのがぼくたちの常だった。無心で何も考えないで身を乗り出して真っ黒な川を覗き込むと、その流れに深く深く吸い込まれて行くような、ぼくの目には見えない黒い悪魔にこっちへ来い、落ちてこいと招かれているような…それはとても恐ろしいことのはずなのに、頭がぼうっとしてなにもかもを忘れてしまうようなとても不思議な感じがした。ぼんやりと立ち尽くす姉さんの隣に立ち、ぼくは毎日川へ通い、飽くことなくその川を見た。いくら話しかけても答えない姉さん、わかった上で言葉をかけ続ける上っ面のぼく。厳然と動かない静止した時の中を生きている姉さんと日々接しているうちに、さながら地獄の大穴のごとく巨大に口を開けた怪物のような、何もかもを飲み込んで猛々しく逆巻く川の流れの圧倒的な臨場感に、ぼくは魅了されていたのかもしれない。


その日は風が吹いていた。まだ五月も頭だというのに太陽は初夏の日差しを帯び、ぼくは玄関先で母さんから押し付けられた麦わら帽子を被り、いつものように姉さんと手を繋いで歩いていた。ふと、ほんの少しの気まぐれで、川がみたいと思った。あの黒い川。悪魔に誘われた、とでもいうのだろうか?いつもは帰り道に覗くけれど、今日はいまがいい。姉さんの手を強く引いて、ぼくは川へと向かった。


川にかかる橋は大きくて、ぼくはいつもわざと橋が揺れるように足どりを強くする。ぼくのちっぽけな体重で、この橋は頼りなくぐらついて揺れるんだ。ふと見下ろして覗き込むと、そこにはごうごうと流れる力強い水流があった。川は恐ろしく黒く光り、ぼくは食い入るようにその流れを見ていた。

「やっぱり、すごいな…」

そのとき一際激しい風が吹いた。


あっ。ぼくの帽子が飛んだ。その刹那、ドボン、と大きな水音がした。「いま、何か落ちた?何か見た…?姉ちゃん」「姉ちゃん?」そのとき、ぼくはすべてを理解した。ついさっきいまそこに、さっきまで、たしかに…ぼくのとなりに立っていた姉さんの姿がなかった。


「姉ちゃん!!」姉さんは落ちたのだ。あの真っ黒な流れの中へ。なんで?どうして?足が滑った?助けないと。大きく身を乗り出さないとここからは落ちない。じゃあなんで…─ぼくの、帽子のため?そんな。だって、だって姉さんは…



姉さんは、何もわからないじゃないか。



ぼくの帽子が風に飛ばされたって、そんなこと気づかないはずだ。

何よりそんな些細なことで、こんな川に飛び込むなんて!!


それから先のことは、あまりよく覚えていない。ぼくは錯乱し泣き喚き、手足が千切れんばかりに無我夢中で走りながら助けを呼んだ。泣いている子どもの叫ぶ声が、果たして人が理解できる言葉になっていたのかはわからない。


数日後、姉さんは港の漁船に引き上げられた。海面を漂っているところを発見されたらしい。漁師は姉さんのことを、枝に麦わら帽子を引っ掛けた流木が漂っていると思ったそうだ。それはぼくの帽子を掴んだまま溺れ、波にさらわれていった姉さんだった。


姉さんの亡骸は、ぼくにはいままで通りの姉さんと変わりなく思えた。溺れたが発見が早かったせいでさして腐敗は進んでおらず、葬儀屋にきれいに処置された姉さんは相変わらず何を考えているのかわからないような空虚でがらんどうの表情で、でもどうしてか唇からは僅かに満足そうなほころびを感じた。そのときぼくは初めて姉さんの人間らしい表情を見た気がした。死化粧を施しても姉さんの肌はまろやかなビアンコ・カッラーラのように白く透き通って、その白さは彼女がもうこの世のものではないことの他ならぬ証明だった。


あの日のオルチャの丘稜を臨む田園風景の広がる小高い丘の上の墓地に、姉さんの墓がある。今年もまたぼくはここに来た。あれから何年も経ちぼくはあの頃の姉さんの年を追い越して生きている。墓標の前に立つと誰が手向けたのか、真っ白なガロファノが一輪だけ活けてあった。その花をしばらく見つめてから、姉さんの前に立ったぼくは何度繰り返したかわからない言葉をかける。「久しぶり、姉さん。元気だった?ぼくは相変わらずだよ。まあ…元気かな。─今日はいい天気だね。少し風が強いけど…また今年も会いに来たんだ、姉さんにどうしても聞きたいことがあってさ。その質問、何度目だって笑うだろうけど。ねえ、あの日姉さんは、ぼくの帽子を取ってくれようとしたのかな…」


どうして生まれてきたのだろう。何もわからず、自分が何者であるのかも知りえない。姉さんはずっと側にいたぼくのことすら認識していなかった。野生動物のような原始的本能しか持ち合わせず、煌めく日差しや色鮮やかな花の名前、むせ返るような匂い立つ新緑の色も、小川に手を指し込んだときの凍りつくような水の冷たさも、水面を弾けるように反射する太陽の光も、この世を形作るありとあらゆる美しさを姉さんは何も知らなかった。柔らかく可愛らしい子猫の毛並みも、胸が苦しくなるような、甘い匂いのする人間の赤子の体温も。誰かの名前を呼ぶこともなく、恋も知らず。すべてを知らずに姉さんは死んでいった。清廉で可憐な、一輪の白い花のようだったぼくの姉さん。家族は姉さんの死後、家から慌ただしく家財道具を片付けて姉さんなどはじめからいなかったかのように過ごした。でもぼくは。ぼくだけは姉さんのことをずっと覚えていた。あの日と同じぼくの帽子をさらったトスカーナの五月の風吹く中、ぼくは姉さんの墓跡の前にいつまでも立っていた。

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