哲学的恋愛懊悩短編集

浮待 繭

青春の追想

「海に行こう」

 平成最後の夏、あいつの電話で起こされた。夜中につけっぱなしにした冷房が、酷く寒い朝だった。

 シャツ一枚羽織って外に出れば、冷えた身体を熱風がすぐさま包み込んだ。あいつの待つ駅へ自転車を走らせれば、背中は汗でぐっしょり濡れた。

 あいつと合流して、電車を乗り継ぎ、炎天下の道を歩いて、海岸へ。二人してへとへとになりながらようやく辿り着いた砂浜は、あちこちに流れ着いた汚いゴミが光っていた。

「足首までならいけそう」

 汚いから入るなよ、と僕が言うより先にあいつはサンダルを脱ぎ捨て、ズボンの裾をまくって海に入っていった。僕が慌ててそれを追いかけると、

「君は入らないと思った。汚いしさ」

 とあいつはけらけら笑った。

「お前が入っていくからだよ」

「波打ち際で待っててくれたって良かったんだよ?」

「おいっ、水掛けんなって」

「海入っちゃったんだから今更だろ? こんなに暑いんだし、どうせ乾くよ」

 あいつの足に蹴り上げられた海水が、日差しをちかりと反射して散っていった。

滴の滑る、やたらに白いつま先が目についた。あんなに白いけれど、触ってみたらちゃんと体温があるのだろうか。今いきなり掴んだら、あいつはバランスを崩して、尻餅をついて、酷く怒るのだろうか。

 ふいに顔に、生臭くぬるい水が降ってきた。ダイレクトに口に入ったそれに噎せる僕を笑う声がした。

「おまっ……」

「どこ見てんのさ、ボケッとしちゃって。綺麗なおねいさん見つけた?」

 あいつは僕の顔を下から覗き込む。僕はそれを避けて上を向く。

「ま、そんなとこ」

「えっどこどこ」

「もう帰った」

「はあ? 何だよ自分だけ。エッチスケベ幻滅」

「言ってろ」

 不貞腐れたようにつま先で水をかき混ぜ始めたあいつを横目に、僕は塩辛い唇を舐めた。

 そしてわずかに円い水平線を眺めた。遠くに船の影が見えた。足首は温く濁った波に洗われていた。磯臭く暑い大気の中で、背中に張り付いたシャツが冷たかった。青くのっぺりとした空を背景に、遊ぶあいつの髪が日に透けて光っていた。


「飽きた、帰ろう」

 強い風がひとつ吹いたとき、あいつが言い出した。

「気は済んだか?」

「済んだ済んだ」

 少し高くなった水面をざぶざぶと踏みつけながらあいつは砂浜へ歩いていった。僕はそれを追いかけた。

 ゴミだらけの浜辺を歩くうちに濡れた足首は乾いていった。海風にあいつの髪が揺れていた。

「あんまり暑いからさ、どこかに逃げ出したくなって」

「それで僕を引きずってこんな所まで来たわけか」

「そ。悪くはなかったでしょ?」

「どうだろうな」

 気のない返事を装う。えー、とか言いつつ、あいつはにやにやしていた。足元には二つ、伸びた影が並んでいた。

「お前のせいでまだ口がしょっぱいよ」

「水ぶっかけたの結構前じゃない? 濡れ衣だ」

「いやいや、僕は嘘つかない」

「ふーん、じゃあキスしたげる」

 ぎょっとしてあいつの方を見た。あいつはこちらを見上げて、唇を突き出すように顎を上げた。

「ほら、ちょっとかがんでよ」

「いや、要らん、やめろ。僕が悪かった」

 僕はそっぽを向き、掌であいつの口を塞いで押し退けるように遠ざけた。

「何だよ無碍にしちゃってさ、ちょっと恥ずかしかったのに」

 あいつは僕の腕を掴んで引き剥がし、頬をかすかに上気させて抗議した。

「恥ずかしがるくらいなら滅多な事言い出すな」

 僕は少し湿った掌を自分の口元にやった。西日が当たって熱かった。日に焼けて、きっと赤くなってしまうな、と思った。

 あいつはあいつでしばらく黙りこくったまま歩いていたが、曲がり角の先にコンビニの看板を見つけると、僕のシャツの裾を引いた。

「アイス! アイス買って帰ろ」

「家着くまでに溶けるって」

「じゃ、食べながら帰ればいいよ。口の中、しょっぱいんでしょ?」

 だからそれは僕が悪かったって、と言う前にあいつは先を歩いて行ってしまった。僕はため息をついてそれを追いかけた。

 ずっと追いかけ通しの振り回されっぱなしだ。今日だって、本当なら寒い自室で怠惰を貪るはずだった。朝にあいつが電話なんか掛けてきたせいで、髪は潮風でべたついていて、服は磯臭くて、靴の中には砂が入ってじゃりじゃりした。

 僕は少しだけ眠くなっていた。疲れていた。気怠くて、心地よかった。

 もし、アイスで口の中が甘ったるくなったって言ったら、あいつはさっきと同じように唇を尖らせてくれるのだろうか。くれたとして僕は今度こそ、あいつの口をちゃんと口で塞いでやれるだろうか。

 いや、きっと無理だ。僕は確信していた。そんな勇気があったなら、とっくの昔に僕らは今のような関係ではいられなくなっていたはずだから。

 コンビニの冷房がすっと汗ばんだ背を冷ました。アイスを選んでいたあいつが僕に気付いた。早く来いと笑った。仕方がないって素振りで、僕はあいつの元へ歩いていった。

 平成最後の、何の変哲もない夏の日のことである。

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哲学的恋愛懊悩短編集 浮待 繭 @UkimachiMayu

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