傘とうたえば
二石臼杵
空から錆が舞い落ちる
昔、中国にいた心配性が「天が落ちてくるんじゃないか」なんて壮大な気苦労をした、とかいう話だ。
そして現代。その不安の通り、果たして天は落ちてきた。
「あーあ、いい天気だ。こんな日こそ家にこもりたいもんだけどな」
ぐちぐちと文句を言いながら、俺は差している傘を少し傾けて忌々しげに空を見上げる。
視界に映り込んだのは、まぶしいほどに青く晴れ渡る空。その青さはどこまでも爽やかに澄んでいて、雲は綿のごとく思い思いに千切れ、太陽を中心に広がっている。
どこをどうとっても、非の打ちどころのない晴天だった。
空を覆うように走る、巨大な蜘蛛の巣状の亀裂を除けば。
いい天気。だからこそ、最悪な天気。
何者かが空を殴って叩き割ったように、あるいは天の崩壊を表すかのように、不気味なひび割れが見える。
青い空。白い雲。黒いひび。
これが今の時代の晴れ空だ。
「はあ。初登校だってのに、いやな天気だ」
ま、そのためにこいつがいるんだけど。
そう心中で付け足してから、自分の手にしている傘を見やる。
頭上を丸く覆い、雨や雪、日光などをカットしてくれる青い
そして、その傘布に沿って放射状に傘を支える骨と、そこから下へ伸びる中軸はともに硬質な銀色。このあたりは昔と同じかもしれない。
さらにその下の先端部分、今握っているハンドルには「
もちろんこれは日傘なんかじゃない。そんな習慣はとうになくなった。なぜかって? 今は日光や紫外線より、はるかに厄介なものを遮る必要があるからだよ。
なんて考えていると、急に俺の周りだけ暗くなった。それまで傘のもたらしてくれた日陰より一層濃く、不安を煽る暗闇。
「……っ、いきなりおでましかよ。あながちテレビの予報も馬鹿にできないな」
傘を少し浮かせて見上げると、正面には俺より二回りもでかい人影がいた。
それは人影というにも無骨な、子どもが粘土で作った人形のように不格好な黒の塊。頭部は胴体にめり込んでおり、胸の部分に目や口と思しき穴がぽっかりと空いている。
何度見ても、笑っているみたいで不愉快だ。その輪郭は煙のごとく揺らめき、一定を保つ気はなさそうだ。煤やら灰の集合体に見えるが、材料はまるで違う。
こいつは
普段は目に見えないほど小さい粉状となって地上に降りそそぐが、積もって大きくなると、自我を持って人を襲うようになる。雨や雪のときには降ることはない。今のところわかっているのはこれくらいか。
空に排出された大気汚染物質が変化した。空のかけらが落ちてきた。空の亀裂の隙間と繋がっている別世界からやってきた。神がお怒りになって生み落とした。果ては宇宙人が送りこんだ兵器などなど、いろんな説が飛び交っているけれど、真相はさっぱり不明だ。
こいつが何者かなんて関係ない。俺のすることはただ一つ。
「
俺の呼び声に応じて、傘布の内側の闇がぐにゃりとねじれて歪んだ。
すると、だらんと一房、艶を帯びた黒髪が傘の中からぶら下がり、逆さになった少女の頭が生え、首が生え肩が生え、続けて腕や胸や腰や脚が傘の内側から流れるように現れる。
最終的にそれは一人の少女となって、地面に生まれ落ちた。傘の中に納まるはずのない、人間の少女が。
ただ、せっかくの非現実的な登場シーンだってのに、彼女が顔から地面に激突して「ぎゃふ!」なんて間抜けな悲鳴を上げたのはいただけない。
「痛い……」と地面に突っ伏す少女。彼女は、お尻を空に突き出す体勢で倒れていた。
「おい、麗夏」
俺の言葉に、情けなく転んでいた少女――麗夏は素早く起き上がる。
地面まで届く、やや青みがかった黒のサイドテール。きりりとした半月を思わせる目の中には、流星のきらめき。腰までしかない丈の短い浴衣を着込み、その下にセミショートのアンブレラスカートを穿いている。高校生ぐらいに見えるけど、本当の年齢は知らない。
「クモリ。見た? その、パンツ、とか」
「いんや」
白だった。清純な感じの色でいいと思います。
俺の言葉を素直に信じ切っている麗夏は一言。
「よかった」
「よくねえよ! 前見ろ前!
正面では黒い人型の怪物が、その太い右腕を振り上げているところだった。腕の動きに少し遅れて、黒いもやが空中に漂う。
それを見た麗夏は目を三日月のごとく鋭くとがらせ、俺の差している傘の内側の闇に手を突っ込んだ。そして、彼女が出てきたときと同じように傘の中から現れた一振りの剣を手にする。もう俺の傘は四次元ポケット状態だな。
そこから先は一瞬。黒い化け物は俺に向かって巨大な腕の一撃を見舞う。が、それは見事に空振った。怪物は振り下ろしたはずの自分の腕を見やり、そこでようやく、それが斬り飛ばされていたことに気づいた。そして、ゆっくりと後ろを向く。
そこには、くるくると宙を舞う怪物の腕をキャッチして、それをむしゃむしゃと食べる麗夏の姿があった。真っ黒な腕は、いともたやすく少女の口へと飲み込まれていく。綿あめでも食べているみたいだった。
「ごち」
やや満足げにそう吐き出す少女に、俺は聞いてみる。
「麗夏。毎回思うんだけど、天錆ってどんな味なんだ?」
「弾力も食感も味もない。ひどく味気ないものだ。まだまだ麗夏の空腹を満たしてくれそうにはない。というわけで、いざ。参る」
剣先を黒人形へ向け、大食い宣言をする麗夏。
彼女の手にしている剣もまた、よく見れば傘だとわかる。持ち手はフックみたいに曲がっていて、刃の部分は閉じた傘をプレス機にかけたように薄く鋭くなっている。
対峙する化け物と少女を安全圏で眺めながら、俺が差しているのも傘。麗夏が剣として使っている武器も傘。
いまどきの傘は、空から降ってくる粉状の天錆から身を守る防具であると同時に、地上に積もって自我を持った天錆に対抗する兵器でもある。
俺は戦わないのかって?
無理無理。戦うのは怖いし痛いし、何よりいやだ。たとえ女の子にばかり戦わせて守ってもらってる情けない男だと思われようが、俺には戦えない理由がある。
俺が戦ったところでろくなことにならない。それは、入学式の日に思い知った。
まあ、それは別の話さ。
なんて思いに浸っていたら、その元凶がこっちへ飛んできた。麗夏の最後の一閃で斬り刻まれた天錆の顔(らしき部分)が、俺の顔面にまとわりつく。すぐに霧のように消えたその表情は、相変わらず笑っているように見えた。
全身の鳥肌という鳥肌が一斉に立ちあがる。涙、鼻水、咳が俺の意思に反旗を翻し、とめどなくあふれ出す。
「うぇっ、げほっ! ごほっ! がへっ!」
そう。俺は、
「麗夏お前、あぐっ、俺に天錆を近づけるなって言ったろ!」
「確かに、貴重な食料を無駄にしてしまった。クモリ、麗夏は絶賛猛省中だ」
「反省すべき点はそこじゃねえよ! あと俺の名前はヒサモリな! ちょっとは漢字勉強してくれ!」
さっきまで俺たちを襲っていた人間大の天錆は、今や目の前の小さな女の子の胃袋に納まっている。
彼女は食事を終えるとすぐ部屋に戻る子供さながらに、俺の差している傘の内側に飛びこんだ。
「おい、麗夏! まだ話は終わってないぞ!?」
麗夏の無駄に長いサイドテールをつかもうとしたが間に合わず、彼女は傘布の内側に広がる闇の中へ吸い込まれて消えた。あいつ、逃げたな。まあいいや。これ以上気にするのはやめて、俺は本来の目的――すなわち登校へ向けて足を進めることにした。
季節は七月。だけど、俺にとっては初登校だ。原因はいたってシンプル。さっきも俺を苦しめた、天錆アレルギーのせいだ。
天錆アレルギー。高校に入って、入学式を迎えた日からこの症状にかかってしまった。その名の通り、天錆を触ったり吸い込んだりすると、涙や鼻水や咳が止まらなくなる。これまた原因不明ときたもんだ。
おかげで、せっかくの高校生活を三ヶ月も休むはめになってしまった。だけど、無為な日々ではなかったと思う。こいつに出会ったんだから。
「なあ、麗夏。さっきのことはもう怒ってないから、いい加減教えてくれよ。お前は、何だ?」
「それは聞かない約束だろうに」
頭上の傘に向かって問いかけると、上に広がる傘布の闇の中から声だけが応じる。
俺は結局、この声の主、麗夏の正体を知らない。引きこもっている間、なんとか天錆に対抗しようとがむしゃらにマイ傘を改造していたら、いきなり傘の中から現れたんだ。
そりゃあ最初は驚いたけれど、天錆と違って言葉の通じる相手だったからか、不思議と怖いとは思わなかった。
自分でも異常なのはわかってる。それでも俺はこいつを受け入れようという気になった。
そして、彼女が勝手に協力してくれると言うから、こっちも勝手に利用しているだけだ。その「傘の中の少女」は言葉を続ける。
「麗夏はこの傘と一心同体。クモリは麗夏を連れて行って、天錆を食べさせてくれればいい。そして――」
「俺は天錆を食べてもらって、青春を思いっきり楽しむ、か。俺たちの関係って、ギブ&テイク・オフだな」
「離陸するのか」
「……ギブ&テイクアウト?」
「お持ち帰りするのか」
「…………」
とりあえず、学校に行ったら真面目に英語を勉強しようと決めた。
まだ早朝だというのに、スーツ姿の会社員やなんの仕事をしているかわからない私服の女性やらとちらほらすれ違う。
その誰もかれもが、例外なく傘を差していた。
今は外を歩くのに傘が必要な時代だからな。雨が降っていなくても、人は普通に傘を差すさ。いまどきの傘は、降ってくる天錆のシャットアウトと、積もった天錆への対抗兵器の役割を兼ねているのだから。
なんにせよ、SFの世界みたいにガスマスク常備とか、宇宙服着用とか、全身を特殊なジェルでコーティングするよりはだいぶましだ。
俺のような天錆アレルギーは別だけど、天錆は多少吸い込んでも人体に影響はほとんどないらしい。
もちろん大量に吸い込めば悪影響は出るが、体内に取り込まれた天錆は一日もすればすっかり分解されてしまうらしいので、今のところは傘で充分だと言われている。
とにかく。俺は今、傘を差して普通に登校できるようになった。
実は俺は、この日をずっと心待ちにしていたんだ。
天錆を駆除する専門職は、
子どもの頃からの俺の夢は、一人前の天騎士になることだ。
しかし、天錆アレルギーになってしまい、夢は絶望色に塗りつぶされた。
高所恐怖症の人がパイロットに向いているわけがない。
けれども、今は麗夏がいる。彼女は俺の夢への道を、ほんの少し照らしてくれた。
なぜアレルギーを抱えてもなお天騎士になりたいかというと、入学式の日に、知り合った友達と交わした約束が忘れられないからだ。それを守るために、俺は学校に行くのを諦めなかった。
これでやっと、あの約束が果たせるようになる。
期待と喜びに心を膨らませながら歩いていると、とうとう学校にたどり着いた。長い道のりだった。距離的にではなく、引きこもっていた時間的にだ。
傘のもたらす日陰を受けながら、俺は校門へ足を踏み入れた。
そうとも、これは俺の夢を叶えるための第一歩だ。
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