第12話 012
『はぁ? 戻れないってどーゆーこと?』
ワイヤレスイヤホンから、
「いや、だからさー、俺、転勤だって言ったじゃん? まぁ、支社変わんねーくらいの転勤だけどさ。だから、荷物運んだりとか、色々あるの、わかるっしょ?」
翌日。
満開まであと少しの桜を見ながら連休の中たどり着いたオフィスで、ダンボールと書類と、それから嫁と、格闘する俺を、休日出勤の営業員がクスクスと笑いながら遠目に眺めている。
「この連休で全部片付けようとと思ってたからさ。ホント、ごめん」
『まぁ、いーけど。ほんとさー、コロナとか心配してんだかんね? こっちは』
「わーってるって! それは俺もだし。あんま外出んなよ?」
『あーあ、なんでそんな近場に転属なのかな? 出世する気、あんの?』
「こっちが聞きてーわ、そんなん。ガッツリあるっつの」
考えてみると、新年の連休以来、明里と顔を合わせていない。
付き合っていた頃から、俺は女だらけのオフィスにいて、短い時には1年で転勤になった。
結婚した時、明里の通勤に合わせてマンションを借りたけれど、俺がそこに住んでいた時間は、1年分にもならない。
そんなだから、結婚5年目だってのに、子どもが出来る気配すらない。
その事について話し合う時間もなかった。
「ゴールデンウィークは全部ちゃんと休むよ」
『当たり前でしょ。こっちは溜まってんのよ、色々と』
耳元で、明里が含みのある声を潜めて囁く。
「俺のが溜まってる」
思わず口元を手で覆って、俺も声を潜めた。
「まあ、そんなわけだから、とりあえずこの連休はバタバタなんよ。ごめんな」
営業員の視線も鬱陶しくて、わざとそう声を上げる。
『切りたがってるー!』
カラカラと愉快そうに笑う声がして、じゃあね、と電波が切られた。
嫁が明里でよかった。
本当に、色んな意味で。
「植原オフィス長」
電話が終わるのを待っていたんだろう。
作業をしていた営業員が、デスクの前に集まって来た。
3連休の中日。そんな日にオフィスに来る営業なんて限られているけど、今日はその数が少しだけ多かった。
次に来るオフィス長を迎える準備があるんだろう。
迎えるために届いた花を箱から出したり、みんな忙しそうにしていた。
「きっと向こうのオフィスでもこうして準備してますよ」
中堅の営業が笑顔を浮かべる。
「だといいけど」
「絶対です」
「ま、伝統だからな」
今日来ている営業は7人。
中堅2人と、新人5人。
一目で把握出来るのに、思わず見直してしまう。
そんな俺の目線に気付いたのか、
「紗英なら今日は来ないって言ってましたよ」
新人の1人が意味ありげに言った。
「聞いてねーし」
そう答えて、書類の束に手を伸ばす。
伸ばして、その手をひっ込めた。
「新しいオフィス長も、ちゃんと構ってやってな?」
苦笑いで顔を上げると、見慣れた笑顔たちが、あたりまえでしょ、と、咲いていた。
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