第4話 努力は裏切らない

「今、なんて言った?」


「いや、だから、ここで寝なよ」


 周防は教室の中央にある布団を指さす。こいつ、本気で言ってるんだろうか。


「たまたまこの部屋に来る途中、倒れてる夜船を見つけて、それで私は救急車を呼んであげたんだよ。実は私、前々から夜船には目を付けてたんだよね」


 周防は立ち上がって、さっき指をさしていた布団に座る。


「夜船、寝てないでしょ? 何で?」


 核心を突かれた。

 俺がぶっ倒れた理由。


『きちんと寝なさい。君は過労で倒れたんだから、これからはきちんと休まないと駄目だよ』


 俺は、一昨日医者にそう言われて、病院を出た。

 それから今日に至るまで、俺は一睡もしていない。


「……勉強、してたんだよ」


 ここで誤魔化しても、看破される気がした。

 だから、正直に、最小限の言葉で答える。


 言ってから、何となくお茶を一口含んで、口を湿らせた。


「勉強? 徹夜で? ずっと?」


 周防は訳が分からないといった顔をしている。


「俺は、努力をしなければならない。俺は天才じゃないから、天才に勝つには、何倍もの努力が必要なんだよ。少しでも足を止めたのなら、それは取り返しのつかない差になる」


 きっぱりと、俺は言い切った。


『努力は裏切らない』


 これは俺の信条だ。

 周防の向こう、空き教室の窓から見た空は、紫色の雲が流れている。この言葉を教えてもらった日も、そういえば、こんな空の日だった。


「で、ぶっ倒れたのね」


 周防が苦笑いをして、こっちを見た。何だか出来の悪い子供に困っているような表情だ。哀れみと微かな嘲笑。


「馬鹿にするな」


 知らず知らずのうちに、自分の拳に力が入っているのを感じた。


「ずっと寝てるやつには分からないだろうけどな。俺達は、今、ずっと、年中比べられてるんだ。競争社会の中にいる。勉強は特にそうだ。数値が出る。上と下がひと目で分かる。順位がつく。世の中は頑張らないと勝てないように出来てるんだ」


 頭に血が上って、俺は周防に捲し立てる。


「じゃあ、そうやって頑張って、ぶっ倒れて学校に来れなくなるのは時間のロスとは言わないの? がむしゃらにやれば良いって話じゃないでしょ?」

 

 しかし周防は、一歩も引かなかった。教室で寝ている姿とは正反対の、射抜くような真剣な瞳。

 彼女の言っていることは、間違いじゃない。正しかった。


「分かってるよ。論理的には。でも、夜になると、恐ろしくなる。今日の休息が、いざという時決定的な差になるんじゃないかって」


 最早俺の努力は、理屈ではなくなってしまっていたのだ。


『努力は裏切らない』


 言葉はまるで呪いのように、ひたすら俺を急かす。

 努力が裏切らないのだとしたら、裏切るのはきっと、自分の方だ。自分が努力を止めた瞬間、今までのことは全て無駄になる。失敗や敗北の責任は、全て自分の努力不足にある。

 それが俺の思考。

 止めたくても止められない、思考。


「じゃあ、夜船は眠くないの? 寝たくない? 本当に、そうして寝ずにいるのが正しいと思ってる?」


「それは……思わないけど」


「じゃあ、寝ようか」


 ぽんぽん、と、周防は自分の隣を叩く。大きめな布団の、余ったスペース。寝るにしても隣っておかしいだろ。


「ちゃんと見ててあげるよ。起きて勉強し出さないように観察しててあげる。だから安心して寝転がって、目を閉じて、全身の力を抜いてさ」


 どうやら周防は俺が寝る間枕元に立っているつもりだったようだ。


「どうしてそこまでするんだよ……」


「私はね。休むこと程素晴らしい行為は無いと思ってるんだよ。辛いなら逃げるべきだし、嫌なら止めるべきだし、疲れたなら休むべきだと思ってる。頑張り屋なのを否定はしないけれど、私はこの世界を、もっと休むことに寛容な世界にしたいと思ってる。言うなれば、夜船はその第一歩かな」

 

 全く、とんでもないありがた迷惑だ。

 そもそも枕元に立たれたら気になるだろ。しかも学校内という特殊な条件である。仮に寝る気があっても寝られるとは思えない。


 でも。

 このままじゃ駄目だというのは、感じていた。


 俺は、眠れるだろうか。

 周防が無理に勧めるからという理由を付けたら、どうだろうか。

 変わらなければならない。

 俺はきっと眠らなければならない。


「周防。お前なら、俺を眠らせることが出来るのか?」


「勿論」


 周防が自慢げに、むふーと鼻息を出す。


「じゃあ、俺に休み方ってやつを教えてくれ。本当は俺も思ってたんだ。勉強の効率を考えても、俺はしっかり休まなきゃいけない」


「いいよ。もとより、そのつもりだったんだから」


 周防が口角を上げて、目を細める。


「じゃあ、まずは寝ようか。全然寝てないんでしょ? 寝る感覚を思い出すっていうのが第一歩だと思うよ。そのうち気持ち良くて止められなくなるから」


 再び布団をぽんぽんと叩いて、俺を呼び込む。

 俺はそれをスルーして、教室の奥で畳まれていた布団を敷き始めた。


「そもそも寝られないと思うけどな。今でも本来放課後にやるはずだった勉強時間が無駄になって、焦ってるくらいだし」


「努力努力って言うなら、頑張って休みなよ」


「どうやって?」


「今ここでは頑張らなくて良いんだって、そう思い込めば。大丈夫」


 周防はまるでそれが簡単なことのように言った。

 頑張らなくて良いなんて、今更思えるはずもない。


「まぁ、目を閉じてはみるけどさ」


 敷いた布団に横たわる。うつ伏せになったらベルトの金具が痛かったので、仰向けで寝ることにした。


 目を閉じても、人の気配って、結構分かる。

 考えてみれば、俺ってあんまり、休めって言われたことが無かったかもしれない。

 この部屋には「頑張れ」と言う人も、競争相手も居ない。


「おやすみなさい」


 本当は近いはずなのに、遠くで声がした。

 周防の、気怠げな声。温かな響き。

 身体が、意識が、沈んでいく。






 夢を見た。

 昔の夢だ。

 

 昔から、俺は負けず嫌いなガキだった。

 いつも隣に優秀な幼馴染が居たから、両親からも友達からも、先生からだって、いつも比べられていたように思う。


 小学生の時、全国テストで幼馴染に敗北を喫した俺は、家近くの公園で一人泣いていた。あまり人の居ない、狭い公園。

 夕暮れ。

 紫色の空。


「どうしたんだ?」


 自転車のブレーキの、軋むような音が響いたのを、よく覚えている。俺に声をかけ

たのは、大学生の男だった。


 そして俺は、その人に洗いざらい事情を話したのだ。

 幼馴染と、ずっと比べられ続けていたこと。

 頑張っても頑張っても、思うような結果が出なかったこと。

 今考えても、その時他人に自分の心を打ち明けた理由が、俺には分からない。自分のことだというのに、さっぱりだ。

 ただ、その人の、深い焦げ茶色の瞳が、まっすぐ俺を捉えて話さなかったの。


「そっかー……」


 小学生のガキ臭い悩みを彼はどう受け取ったのだろうか。分かったような、分からなかったような返事をして、そして彼は、俺の目を改めて見た。


「でも、努力は裏切らないよ」


 一般論。

 陳腐ともとれる言葉。


 他人に何が分かるんだろうと思った。何も知らないからそんなことが言えるんだと思った。

 そもそも俺はあんなに頑張って勉強したのに負けたんだ。既に努力に裏切られているんだ。


「……」


 でも、俺は頭の中でぐるぐる考えて、結局、彼に何も言うことが出来なかった。

 だって、本当は知っているから。俺より凄い奴が、やっぱり皆、俺より頑張っている事を。


 じゃあ、どうすればいい。

 結局、努力しかないのだ、きっと。


「……ま、頑張れよ、少年」


 俺の沈黙をどう受け取ったのか、高校生はちょっと気取った風に頭へぽんと手を置くと、さっさと自転車でどこかへ行ってしまった。


『努力は裏切らない』


 どこかで聞いたような言葉でも、心に刻みつけられれば、意味は変わる。あんなことを真顔で、正面から小学生に言う人って、どんな人なんだろうか。


 でも、俺は確かに、憧れたのだ。

 陳腐なくらいに使い古された、正論という名の残酷に、彼は立ち向かっているような気がした。

 俺も、そうなりたい。

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