くちづけと蝶の標本
スエテナター
第1話 蝶の標本
僕が住んでいるのは誰も知らない無名の小さな村だった。小高い山あいの平らな窪みに石造りの家が四、五十軒ほど建ち並び、村人たちがひっそりと暮らしている。麓の大きな街には二十分ほど歩けば着く。地理的に孤立しているわけではないけれど、村から街まで続く山肌沿いの坂道は陽光が届かず不気味で人を寄せ付けない。物理的な距離はさほど遠くなくても、心理的な距離は手が届かないほど遠かった。
ある日、僕たちは学校の課外授業で麓の街の昆虫博物館へ行った。僕が初めて本物の蝶の標本を見たのはこのときだった。山あいの学校から三十分も歩けば立派なコンクリート造りの建物に着く。みんな思い思いに見学を始め、僕も一人で建物をさまよった。どこを見学しようかあてもなく通路を歩いていると、いつしか蝶の標本部屋にたどり着き、かすかな好奇心のうずくまま、その部屋へ惹き込まれた。
しみ一つない真っ白な壁に色とりどりの蝶が飾られていた。小さな標本箱の中で物言わず翅を広げている。他に客はいない。僕一人の空間になるように誰かが仕組んだのではないかと思われるほど、その空間は誰にも乱されていなくて息を呑むほど美しかった。呼吸も足音もない、無音の世界だった。
僕は腰丈の展示ケースの縁に手を置き、ずらりと並ぶ蝶を眺めた。ふと顔を上げると、壁に飾られた蝶も真近に見え、瑠璃色や黄緑、黒や銀の色彩が目の前に広がった。
この蝶たちも、かつては生きていたのだ。人間に出会い、体にピンを刺されるまで、鮮やかな翅を輝かせて空を飛び、蜜を吸って人知れず鼓動を打っていたのだ。それが何かの巡り合わせで人間と出会ってしまい、生きることも朽ちることもない展示物になってしまった。
僕にも心臓というものがあるけれど、こんなちっぽけで無価値なものでも、ピンが刺されたら生命最後の悲鳴を上げ、次の瞬間には生命ではないものになっているんだろう。
僕は標本箱に書かれた蝶の名前や翅の色形をメモしていった。小さな箱に閉じ込められた魂の拓本は宝石のように煌めき、命を失った今も翅を燃やしていた。
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