終端のアリアドネ

日由 了

第1話 待ち針

 賭けをしよう。と、四畳半の牢獄の主は言った。


 私は這いつくばり頭を垂れ、審判の時を待つ。


 四畳半の牢獄の主は、かつて魔女と呼ばれた人間と、魔女に創られた入れ物に微笑みかけた。


「このまま放っておいたら魔女のキミは消滅する。程なくして入れ物のキミは正真正銘の怪物となる。キミたちにとっていいことは何一つない。調停者たるボクからしてみればめっけもの。かねてより破壊者として恐れられていた『砕世さいせいの魔女』を不完全とはいえ葬り去ることができるのだから。あまねく世界はまたしても崩壊を免れる」


 間をおかず、牢獄の主の机にある古ぼけたラジカセから抗議の声があがった。私の喉を使おうとしてでてこなかった魔女の声はいつもの調子よりも弱弱しい。


「ははあ。その様子だと魔力切れまで秒読みかな。オーケー、巻きで話そう。結論から言えば、今死なれると困るから条件付きでボクがキミたちを助けてあげようって言う提案」


 あいつが歯噛みするのが手に取るようにわかった。まあ、あいつには噛みしめる歯もないのだが。


『おれとこいつが死なないというメリットがあるのは分かる。おまえらにメリットがない』

 唸るように魔女は言う。


 余裕たっぷりに男が応じた。

「メリットならあるさ。他のケースの崩壊危機にキミらをぶつけることができる。ためらいなく。容赦なく」

ていの良い使い捨てとして飼われるってことだろ』

「そうだ。あくまでキミらのメリットは、今この瞬間に死なない、ということだけだよ。これくらいがサッパリしていていいだろう? お互い後腐れがない。要するに、恩を売るからボクの手駒になってはくれないかな? 砕世の魔女さん?」


 私にではなく、少し向こう側を見て、姿のない魔女へ向けて牢獄の主は笑いかける。

 露骨に毒づく声がラジカセから漏れ出た。


『必ずおまえも始末する』

「どうぞ。いつでも大歓迎だ。殺せるものなら殺してみたまえ。自分が生きるためであればキミは決断が早くて助かる」

『……生き汚いとハッキリ言えよ』

 苦々しく吐き出すような魔女の声にも眉一つ動かさずに、牢獄の主は快活に笑ってみせた。

「案外自虐的なんだなぁ、キミ。入れ物くんがそうだけどキミもだなんて……ああ、怒らないで、怒らないで。なんにせよ、悪くない。最悪の称号を背負っている割に、悪くない選択だ」


 問題は、と牢獄の主は私を睥睨へいげいした。


「どうする? 入れ物くん? 彼女を殺したかったのは、キミも同じだろう」

 調停者は厳かに告げる。

「魔女を殺す絶好のチャンスが訪れた。キミの目的を僕は知っている。キミが魔術師としての権利も称号も剥奪され、愛する仲間と離れた本当の目的を、ちゃあんと僕は知っている」

「……でしょうね。あなたは調停者だ。そして、私はあなたのおっしゃる通り、所詮はあいつが自分のために用意した肉の袋にすぎない」


 けれど、と私は続けた。


「……私の目的を知っているなら、まだ、殺さないでいてもらえますか」

「もちろん。構わないとも。キミの命乞いを快く受け入れよう。だけど、こちらも条件がある。何せキミは稀代の魔女であるロイド・エスペラスと稀代の科学者であるダチュラ・ヘムロックが創りあげた失敗作にして最高傑作の肉の匣だ。キミ単体でも、十分脅威になりうるからね。」


 そうして牢獄の主は、幾つか条件を示し、

 私は、それを呑むことにした。

 傍らの魔女の抗議の声を無視して、牢獄の主は大きく柏手を打つ。


「大いに結構! 調停者たるボクとの契約成立だ! 滅びを賭けた一世一代の大博打、大いに楽しもう。かつて人の子だった、ロイド・エスペラスと符合された魔女と、その、入れ物くん。――いいや、今日からはキミを、弥月ヤツキくんと呼ぼう」






 ……数か月後



 倒れ伏した私の顔に雨滴が落ちる。床一杯に広がった私の血液と、混ざる雨滴。

 私は死につつあるのだと悟った。恐怖はない。哀しむ人もいない。

「助けてあげます、せんぱい。わたしが、必ず助けてみせます」

 聞き覚えのある声が近づいてくる。来るな、と声をあげようとしても音にならない。

 声の主が私の顔の元に屈みこむ。

「誰もあなたを助けようとはしなかったのだから」

 指が、私の頬の雫を優しく拭った。

 こうしてまた、繰り返す。


 ■/

 天気を魔術で変えられたらな、とかつて私の後輩が言った。


 協会に所属している正規の魔術師とはいえそんな勝手は許されない、と極めて冷静な答えを返したら、わかっていますよ、と彼女はむくれた。ふっくらとした頬をさらに膨らませて。


 天候を広範囲に変えることは、人間だけではなく動植物や環境をも左右する。ごく限られた範囲ならまだしも、一個人が行うには膨大な魔力も必要だ。とても効率がいいこととは思えない。水が必要なら水を呼び出せばいい。乾燥が必要な状況ならば火の魔術を応用すればいい。

 と付け足すと、碌に魔術が使えない魔術師のせんぱいに言われたくはないですねぇ、と意地悪そうに彼女は笑っていた。


 外の豪雨を眺めている内にぼんやりと昔日のやりとりを思い出していた。それほど時が経ったわけではないのだが、感傷めいたものがある。


 協会に所属する魔術師に与えられた官舎の一室で、私は湿気た古い資料を広げていた。資料は、魔女の魔力反応と旧帝国に未だ残る魔女の被害について記されたものだ。全容を把握してしまっていて目が滑る。すっかりなくなってしまった集中力は戻って来る予感がまるでしない。資料を脇へ避けてしっとりと冷えた机の天板へと突っ伏し、雨音を聞いていると頬が机に癒着してしまいそうな心地になる。


 官舎の自室は外壁の一面をガラスに置き換えられていて、そこへ叩きつけられた雨滴がゆるゆるとくっついては離れていく。無機質な白い壁は曇天の影を落として灰を被ったようだ。風の音もない。目を閉じると、完全に雨音だけの部屋。空っぽの私に響く。


 いつになく空虚だった。詰まっていたものがすっぽり抜けてしまった気がする。そこからどろどろと溶け出してしまいそうで突っ伏した頭をずるりと机に擦った。自分がここにいるのだと、動物が主張するのに似ていた。


 赤い前髪の隙間から、時計をのぞく。時刻はそろそろ正午になる。


 となると、いつものあれがはじめるわけで、予想通りに扉が3回ノックされる。私は一度をそれを無視する。せめてもの抵抗。扉がまたノックされ、無視し、ついには扉は乱打される。……今日はいつもよりも多めだなぁ、と思いながら無視。

 そうだ眠ってしまおうかと思うが、いよいよ扉の乱打は激しくなる。

 ……鍵が開いていることも分かってるだろうに、毎度毎度、飽きないことだ。

 扉が抜けかねないし、隣室から苦情が来ても困る。


 開いてるよ、と声を張り上げるとやっと音が止んだ。癒着しそうな机から私はやっと体を離す。虚脱した肩に重力がかかるのを感じた。


 ドアノブが縦に動くのがワンルームの端から見えた。通路の明かりが一筋漏れ、遅れて扉が軋んだ。扉の寿命は確実に短くなっているだろう。


 ゆらっ、と開いた扉の隙間から少女が入って来る。ぼさぼさのプラチナブロンドの髪で視界を遮られた、ロリータ服の少女。前へ突き出された手は血まみれ。見慣れていなければゾンビか何かに見えてもおかしくはない。

 ……まあ。ゾンビはどちらかというと私なんだが。

「せ、せんぱい」

 少々舌足らずの声には疲労も見える。

 ばたん、と大きな音を立てて少女の背後で扉が閉まる。

「手と、髪を……やってほしいです」

 ゆらあっ、と私の前で、少女は立ち止まる。


 沈黙。

 沈黙、沈黙、沈黙。

 いやあ。よく降る雨だなぁ。


「そう」

「いやもうちょっとビックリしてくれてもよくないですか? こう、ホラーのような演出で」

「はいはい」

 桜色の唇を尖らせて、少女――てんは、不満そうに言った。


「いつもの他人のような塩対応どうもです。毎回ひやっとするんですからね? 忘れられちゃったみたいで」

「……あんたみたいなのは忘れたくても忘れそうにもない」

「ホントです? それ」

 眉尻を下げて、天はつられたように噴き出した。ブロンドの髪が、小さく揺れる。


 もちろん、と私は応答する。

 天のために椅子を空けてやると、答えに満足してちょこんと掛けた。

「さ、始めてくださいな、せんぱい」



 霜乃天そうのてんは魔術師である。

 本当の名前なのかは知らない。私にだってたくさん偽名がある。魔術師はそういうものだから仕方がない。相手の本名を知っているだけで呪い殺すこともできるのが魔術師だ。

 天は『不思議の国のアリス』の、かの主人公のような水色のエプロンドレス姿で、今はぼさぼさにほどけてしまっているが、普段は柔らかい金髪を高い位置で二つに結わえている。大きな瞳は晴天を流し込んだような空色。外見的には10歳前後だが、実際にはもっと歳上だ。一度本気の口論になった時にロリババアと罵ったら本気で殺されかけた。あまり言わないように気を付けようと思う。

 正しくなさそうな丁寧語を使っては私を『せんぱい』などと呼ぶが、おおよそ悪ふざけだ。大層あざとく、加虐趣味の変態だが、どこか憎めない愛らしさがある。憎む要素で溢れているのだけれど、それを補って余りあるほどの愛らしさで、天自身、それに自覚があるからなおのこと性質が悪いのだった。


 閑話休題。

 天をデスクの椅子に座らせて、私はクッションの悪いベッドに腰掛けて向き合う。

「生暖かいですねー。せんぱい、まだちゃんと生きてたんですね」

「生憎死んでないからな。あんたが不快なら床でもいいんだけど」

「おや、せんぱいが床から天ちゃんに傅いてくれるのです?」

 ころころと笑う天。部屋に来たばかりの疲労の色はどこへやら。

 傍から見たら喧嘩に見える罵りあいをしているが、これが彼女なりのパフォーマンスだった。私もこうでなければ天と距離を詰めることができなくて、物騒なやりとりが日常と化していた。

 どうしようもなく、お互い不器用なのだ。

「私はそっちの方が不快だ」

「そちらの方が天ちゃんとしては快適の極みですねぇ。それよりもせんぱい、ほっぺたとおでこに跡がついてますよ。寝てました?」

「寝てたわけじゃないが……やる気が出ないというか」

「宿題をやらない学生みたいなことを言わないでくださいよ。惰眠ばかり貪っていては牛になりますよ」

「惰眠は貪れる時に貪っとくもんだろ。それに、食後じゃねーから牛にもならない」

「せんぱいはなれて羊か山羊が精々ですよ」

「生贄か悪魔かよ」

「ええ。ぴったりでしょう? 牛はインドではカミサマの御使いですからせんぱいには分不相応です」


 救急箱を開く。私が魔術師になる前、要するに人間生活をそれなりに送っていたころによく使っていた一品。自宅から持ってきた数少ない荷物の内の一つだった。消毒薬と木の匂いが鼻腔をくすぐる。

 天の手をとって、刺し傷と切り傷を消毒してやる。

 いたいですーいたいですー、と消毒液たっぷりの脱脂綿が傷口に触れるたびに天は呻いた。この程度の痛みなら慣れっこだろうに。


「そんなに痛いなら自分でやった方がいいんじゃねーの」

「……ガラにもないことをいいますね」

 きょと、と天は目を丸くする。

「ガラ、って」私は噴き出し、「私はあんたの思うほど優しいやつじゃないだろ」

「もっと、構ってくれないものだと」

 しおらしいことを言うものだ。調子が狂う。


 何か反撃してやろうかと思い手から顔を上げる。憂いのある目に、灰色の空が映っている。どこか遠くを見ているような。心配事でもあるんだろうか。つい、閉口してしまう。

 その一瞬で天と目が合った。見ていたことを悟られた。反射で手当てをしている自分の手元に視線を落とす。にやーっと天がほくそ笑むのが頭上で分かる。


「せんぱい、普通に人でなしですし」

 軽く、天は言う。

「事実人間じゃあねーもの」


 私は自分が人間ではないことを知っている。死体の寄せ集めを無理矢理動かしているだけだ。

 天には秘密にしているけれど。


「魔術師だから?」

「いいや。だって、私、魔術師は辞めて……あれ?」


 自分で口走った言葉に首を傾げる。

 私は今『魔術師を辞めている』と言ったのか?

 なら、私はなぜ魔術師専用の官舎に居るんだろう? というか、魔術師であることを辞めるなんてできるんだろうか。元から魔術は不得手だったが。

 魔術師を辞めて、人間でもないなら。

 ……私は、何だったのだろう。さっきは何と、答えかけたのだろう。

 きゅっと手を握られた感覚で、はっとなった。


「ここに居ますよ。せんぱい。……あなたは魔術師じゃないですか」

 私の顔をのぞき込んで天は柔らかく言った。

「天ちゃんと、せんぱいと、ヤクさん、イチトさん、シュンさん、ハクヤさん。皆で悪い魔女を倒すって約束した、チームですよ。どうしちゃったんですか」


 変なせんぱい、と天は私の右手をなぞる。温かかった。天の傷だらけの手は、生きている人間の手をしていた。反対に、自分の手が温度を失ったように思えた。


 何かが、ずれている。そんな気がする。


「魔女、ね」

 魔女。

 遥か昔、何年も何年も前に、協会の前身・帝国付属魔法議会お抱えの魔術師であった彼女は、自らの所属していた帝国を消し飛ばした。ヒトも物も、何もかも。

 裏切者の魔術師。火刑を約束された大罪人。

 魔女は、各地に自分の毒をばら撒いた。帝国と地続きになっていた世界に。隔たりのある別の世界にも波及した。毒――世界への呪いだ。魔物と厄災を引き寄せる、魔術的な因子。因子は火種となり魔物を集積し、多くの国や断片的な異世界を呑み込み、住まう人も社会も滅ぼしていった。たとえ自らが息絶えようと使命を果たさんとする、世界に対する呪い。命だって世界にだっていつかの終わりが約束されているが、寿命をずっと早く縮めてしまう。

 その魔女は新設された協会の魔術師に殺された。魔女が、帝国への復讐を果たした後に。

 つまり、世界を丸ごと挽潰したあとで。

「魔女は、死んだんだ」

 ぽつりと、言葉が漏れた。


「だけど、魔女の遺したものを、殺さなくちゃいけない」

「そう! それが天ちゃんたちのお仕事なのです! 魔女の復活を止めるためにも! どこにでもいますからねえ、復活を目論むわるーい人たちは。まったくあんなのの何がいいんだか」と天はうそぶく。

「あんなの?」

 さも魔女を知っているかのような口ぶりに私は口を挟んだが、天は素っ気なかった。

「ろくでなしに決まってますからね。そんなことよりも、カワラせんぱい、いたいけな後輩が手を傷だらけにしてるですよ。何があったかを訊くのが筋ってもんじゃないですか」

「自分でいたいけな後輩だとか言える余裕があるやつに訊きゃしねーよ。それに訊いても『内緒ですー』とか言ってどうせ答えちゃくれないだろ」

「おや。バレバレですか。さてはせんぱい、天ちゃんのことだいぶ好きですね?」

「はいはい愛してる」

「うわあ愛のない告白」

「一生離さない。ただし他の目的が見つかるまで」

「絶対裏切るじゃないですか、それ。浮気男の心中ですか」

「愛だって金で買える時代だからな。ロマンスだけじゃあ現実的とは言えない」

「あー。結婚と恋愛は別物ですからねえ」

「愛ほど怖いものはねーからなあ」

「愛さえなければこじれないで済みますもの」

「そういうややこしいのはあんたも苦手だろ」

 ですねえ、と天はのんびり言った。

「処刑人、勘違いハンター、仕事柄恨みを買った人たち、ヤクさんの厄介な後輩。せんぱい、いろんなものに追い回されてますからねえ」

「そこに漏れなく天も含まれるんだがな」

「モテる自慢は男女問わず嫌われますよ?」

「この場合モテたくねーんだけどな。愛されてる訳じゃないし」

「愛しさ余って憎さ百倍、っていうか、天ちゃん以外は100%憎悪にあふれていらっしゃいますし。天ちゃんは、おもしろいから付きまとってるだけですけど」

「なんでこんな奴の治療してるんだろうなあ、私」

「そういうお人好しなところも含めて付きまとわれる原因というか」

「付きまとってる奴が言う台詞じゃないんだけどな?」

「とは言いつつ治療してくれる優しさですよね」

「勘違いが過ぎる。私が冷たくしたらあんたがどっか行くわけでもないのに」

「ほっとけませんからねえ」

「私が?」

「ええ。それはもう」

「逆じゃない?」

「おや。わたしのこと、ほっとけないと思ってくれてるんです?」

「……今のナシ」


 ふふ、と天は笑った。素直じゃない人、と。

 あのな、と私は二の句を継いだ。


「放っておいたらどこで誰にちょっかいかけるかわからない、って意味だからな」

「ちょっかいだなんて、ご無体な。相手はちゃんと選んでますよ」

「だから余計にタチが悪いんだよ。あんたに絡まれて3時間逆海老反りで固定されたシュンの心境を思うと今でも涙があふれそうだ」

「血も涙もないせんぱいが随分なことをおっしゃいますね。というか、そんなことありましたっけ?」

「ヤクがあれほどくだらない理由で治癒魔術を使ったのは初めてだったって嘆いてたぞ」

「ああ。あの茶番ですね! 今思い出しました」

「血も涙もないのはどっちだよ!」

「あれはいい眺めでしたねえ。シュンさんは弄り甲斐がありますから」

「あんたにとっちゃチームの中で弄り甲斐のないやつなんていねーだろ」

「うふふ」

「そこは否定しろよ」

 うふふじゃない。可愛らしく笑っても駄目だ。

「みんな違ってみんないい弄り甲斐があるというものですよ」

「国語の教科書に載るような金言の後ろに要らん文を足すな」


 ピンセットで血の染み込んだ綿球を避けて、新しいものを消毒液に浸す。

「つーか、治療はヤクの領分だろ。こんなちまちました方法じゃなくて、あいつに任せたら魔術で痕も残らず一瞬で治る。何でこう、手の怪我は毎度毎度、私のとこに来るんだ。そうじゃなくても自力で治せるだろ。私みたいに治癒魔術が使えないなら話は別だが」

「せんぱい、初歩の火起こし魔術すら使えないポンコツですものねぇ。ホントに魔術師なんですかねえ。物理全振りの馬鹿力せんぱいですものね」

「おうおう、魔力全開のフルパワーでこの白アスパラガスみてーなおててを引きちぎっちまうぞ」

「軽いトラウマなんですけど、それ。というか誰の腕が白アスパラガスですか」

「モヤシよりはマシだろ」

「野菜に例えてる時点で論外です」

「じゃあ、ニョロ……」

「北欧のそれは駄目ですからね! 言わせませんからね!」

「くねく……」

「怪異もだめです!」


 もう一度たっぷりのオキシドールをくれてやる。天はぴーぴー喚いているが無視して、救急箱から絆創膏を取り出した。今日は十枚もあれば足りるだろうか。

「で、どうなわけ?」

「何がですか」

 ぱちり、と。天がわざとらしく瞬く。小首まで傾げていた。

 こういうあざとい仕草の時は尚一層気をつけなければいけない。大抵、打算でやっている。


「とぼけんなよ。なんで魔術で治さないのか、って」

「……答えなくちゃダメです?」

 そう言われると引き下がってしまう。

「答えたくないならいい」

「ほら、そうやって言うのはずるいです。答えなかったら天ちゃんが悪いみたいでしょ」

「曲解だよ」

 あたしは平淡に応えたが、実際その通りなのだった。

 問い詰めておいて言いたくないならいい、だなんて口ぶりはズルい。

 もちろん、分かってやっているのだけれど。

「魔術師だからですよ」

「逆の理由じゃないかよ。魔術でさっと治せるから良いんじゃないのか」

「痛みを軽視してしまうのは、よくないですから」

「ふうん。なるべく痛くない方が私はいいけど」

「天ちゃんは痛みを与えるのが趣味です」

「それは知ってるし得意げに言うことじゃねーからな?」


 そういうとこ、駄目なところだからな。

 自覚してくれ。

 そして隙あらば人を陥れようとするのもやめてくれると、なお助かる。

 油断ならないんだよ、この自称後輩。

 善意か悪意か一見してわからないのがより一層たちが悪い。


「せんぱい。なんで痛みがあるか、わかります?」

「それは……何かしら異常があるってことを自覚しないと、大ごとになるからだろ。実際、痛みを伴わず発見が遅れると、手遅れになることだってある」

「ええ。怪我や病気はもちろん、人格的な部分でも」

 ではせんぱい、と天は言葉を続ける。

「どうして痛むのでしょうか。あ、人体の機能としての話じゃありませんよ。神経があるからとか、脳が知覚しているからとかいう話ではありませんからね」

「きっかけがあるからだろ。……いや、原因って言った方がいいか」

 天は鷹揚に頷いた。

「痛みには原因があります。風邪の炎症で喉が、うっかりドアで詰めた指が、刺された腹が、痛い。幻肢痛であっても原因があるです。善因善果、悪因悪果、とは言いますし。痛みには理由があってしかるべきなら、逆もしかりですよ。理由があるなら痛みを無視すべきではないのです。体調を崩した己を、不注意な己を、不用意な恨みを買った己にふさわしいだけの痛みが、そこにあるはずなのですから」

「痛みの教訓化、か?」

「天ちゃんにとってはそれよりももっと大きいのです。世界のルールに等しいものなのです」

 世界のルール。胸中で言葉を反復する。

「魔術で治しちまうことはルールに則らないことだってのか」

「命に関わるような大怪我なんかは直してしまった方がいいですよ。特に、天ちゃんたちみたいな魔導隊は仕事で魔物や規定違反を犯した魔術師と戦って、仕事で怪我をしますよね。悪因悪果とはいえども、不注意であれ慢心であれ、自罰意識があるのなら早く治して鍛錬した方がずっとマシです」

 自罰意識。その言葉で何か、ちくりと痛む感覚があった。記憶の底を掠めた程度だが。

 痛いという感覚。原因があるはずの感覚。

 自罰意識の、その原因。

「じゃあ、命があるのなら自分を罰するための痛みが必要だと、あんたは思う?」

 自分に責任を問うための。

「その痛みを受け入れないことは、ルールに背くことになるって、思う?」

 天は目を伏せた。無言の肯定だ。

「行為の結果の罰が痛みなら……私は、何をしたんだ」

 塗装のはがれた壁をなぞる心持だ。

 過去に塗られていた箇所がどんな模様でどんな色だったのかを、私は思い出せないでいる。


「んー、ヤクさんがキープしてた冷蔵庫のプリンを食べちゃったとかじゃないですか?」天は片方の指先を唇に当てる。視線は左上。「食べ物の恨みは怖いですからねぇ」

「そんなことで……、とも言えねーな」

 でしょう? と天は笑った。

「という感じでしれっとヤクを巻き込むのはどうかと思う」

「……嘘ついちゃったって分かります?」

「分かるよ。私が嘘つきだもん」

「せんぱい、そういう時は嘘つかないんですよねえ」

「何言ってんだ、私程素直なやつはそういねーだろ」

「それはお約束過ぎて見え透いた嘘ですねえ」

 くすくすと天は笑った。ひとしきり笑っておいて、天は勢いよく指を突き出した。

「じゃあ、真相をお話ししましょう! ……って痛いです」

「手ぇ怪我してんのをあんたが忘れてどうすんだ……。はい絆創膏巻くから大人しく指出せ、指」

「もう出してます!」

「上じゃなくて前に出してくれ」

「こうですか!」

「あぶなっ! 突き指するぞ。しかもさりげなく緊縛魔術をくっつけるな」

「ちっ」

「マジで油断も隙もねーな」

 天の指先がまとった淡い水色の光が消えるのを待って、手を取る。封を切った絆創膏を裂傷部分に巻いていく。

「せんぱい、そういう甘いところもどうかと思いますよ」

「攻撃しといてよく言えるな」

「攻撃してくるような相手の傷の治療をしますかね、普通」

「天じゃなかったらしない」

「あら」

 えへへ、と天がはにかんだ。

「これはちょっと嬉しいですね。ほほう。えへ。天ちゃんじゃなければ、やってくれないですか。そうですか、そうですか」

「勘違いしてるとこ悪いが、身内で攻撃してくるようなやつが、あんたしかいないだけだからな。照れるな」

「もう、せんぱいったら冷徹」

 まるで聞いてない。いや、聞いてるけど効いてない。


 絆創膏の薄紙を次から次へと剥いては、台紙を剥して天の手や指に巻き付ける。

 しかし、数が多い。10では足りなくなった。

 なんだってこんなに怪我をしてくるんだこいつ。


「あーもういいや。腹芸も面倒くさくなった。なんでこんなに沢山怪我したんだよ。治せって言うからにはいい加減教えてくれたっていいだろ」

「内緒です」

「やっぱりか」

「……と答えるだろうといったのはせんぱいですよ? まあでも、せんぱいが頼みこむからには、冥土の土産に教えて差し上げてもいいでしょう!」バッ、と天は勢いよく立ち上がった。

「私このあと死ぬの?」

「せんぱいの態度次第ですかねぇ」

「したり顔で言う? 帰っていい?」

「何を言うですか。ここはせんぱいの部屋ですよ? それに、」

「それに?」

「どこにも逃げ場はありません」

「思ったよりマジなトーンだ!」

 え。なに。どうしちゃったの。

 天はいたく据わった目で、私を一度見て、見て、それから、再度ぷっくりとした唇を弧に曲げた。

「せーっかく、出血大サービスで教えてあげるんですから。落ち着いて聞いてください」

「あんたが物理的に出血してくる必要はないんだがな。……あと手当しにくいから座って?」

「あ、はい」


 ちょこんとデスクチェアーに座り直して、天は、朗々と言った。

 にっぱりと、気持ちの良い笑顔で。


「天ちゃん、ちょっとせんぱいを呪っといたので。それが原因です!」


 絶句した。

 ……本当に何を言っているんだこいつは。


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