第44話薄明の果てに
蒙昧な夜の果てに無益な体を引きずって、休むところもなくさまよいつづけたわたくしが見出したのは朝日などではなく、ただぼんやりと霞がかった光だった。ゆっくりと明滅するその光の果てに、明日に通じる道が残されているのだと信じる力さえももはやなく、足取りは重く、空腹の身に手にしたミネラルウォーターの水を煽って歩く。薄明薄暮に生きる一匹の黒猫がわたくしに先んじて道を駆けてゆく。その尾に付けられた小さなリボンがひらりひらりと光に合わせて揺れるのを見つめ、ついぞ手が届かないまま去ってゆく猫は、やがて光に吸い込まれるようにして消えてしまう。わたくしもまたそうして光のうちに溶けてゆくのだと思えば、安堵とともにおののきがぞわりと走る。あらゆるものを光のうちに包んですべてが消え去るのだろう。この頽れた海辺街も、そこに停泊した客船も、海の魚たちも、溶けてひとつになる。混沌のうちからやがて生まれる神を見ないうちに、その元素のひとつと成り果てる。巨きな白い影が立ち昇り、光のうちに呑み込まれてゆく事物をたくわえこむようにしてどんどん肥大化してゆくが、その貌は逆光によってまるでわからない。空を覆うように巨きな両手を広げて世界を抱擁するようにも見える。わたくしの身につけた母の形見のカメオのブローチも、光に溶け始める。その下にわたくしの心臓があり、触れたと思えばやさしい母の、幻影が、音も立てずに雪崩れ込んでくる。嘘だ。これは、わたくしの母ではない、別の誰かの記憶だ。母の狂気に満ちた最期の姿が一瞬浮かんでは霧散してゆく。カメオの横顔もまた溶けて、わたくしの旅装も裾から境界線が曖昧に、なって、わたくしの耳朶を貫くアメジストの、ピアスも、砕け散る。そうして裸身になったわたくしにあるべきものは何もなく、ただまっさらな肉体が、宙に浮かんで、解体、されない。拒まれてしまう。やわらかな光にさえ、もの狂わしく散った母にさえ、広がりつづける神の御手からもこぼれ落ちて、わたくしはもはや何も持たぬ肉体を起こし、神の御身から流れる衣の裾に身を包んで、やがて、分離する、世界から、すべてから、わたくしになる。先んじて元素となったはずの黒猫が飛び出して、わたくしの足に頬をこすりつける。おまえは、わたくしの影、失われた秘密。そして空を覆う神が静かにわたくしに告げる。ただそこに、とわにあれ。そうしてわたくしはしずかに原初へとかえってゆく街に佇みながら、もはや水さえも必要としない無性の身をもってささやくように歌いはじめる。生まれ得ないわたくしの子供の挽歌として、母の弔歌として、そして目覚める生命たちの寿ぎとして。黒猫はわたくしに身をすり寄せ、やがて神は力なく腕を、こうべを垂れて、世界は、しずかに光のうちに、閉ざされる。
BGM:Betwixt & Between/Nanosecond Eternity
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます