第32話春を告げる吐息を求めて
まだ、遠い汽笛の声が耳の奥に残っている。航海の果てにさまよって、どこにも行きつかないまま別離を経たおまえの姿を見出そうとしても、ぼんやりとかすみがかって、その面影はいくつもの人影に重なって判然としない。そのうちに亡父の静かなまなざしがあったことを受け止めかねて、彼の遺したコントラバスが船室の奥に残されたまま、延々と航路がつづいているという報せを記した新聞記事を切り抜いて、日記帳の奥深くに挟み込んだのだった。主役になりえぬ父と、華々しくコンサートマスターの座についたおまえとの交わらぬ言葉を、無言のうちに流れる音楽のなかに聴いて、指揮者が振り上げたタクトの先にあったのは、父を冒した病の発病期に他ならなかったのだろう。昂る高熱にうなされながら、曳航される小舟のように体をふるわせて、父は弓を求めた。かつてケースに収められたその弓に丹念に松脂を塗り、船の女神の指先の延長として振り下ろされるタクトに沿って、四本の弦をすべる弓は、楽譜に沿って悲嘆を奏で上げた。あの弓から発せられる音色が父の言葉に他ならなかったのだと気づいたが、楽譜はすでに海に撒かれて溶け消え、今となっては古びた弓のケースがかろうじて手元にあるのみで、弓は父とともに炎のうちに消え、やがて天へと昇った。発せられぬ言葉を、その身に宿したままで。おまえは未だ船上にてヴァイオリンを奏でているのか、その記事には記されていない。表記され得ないものたちが、天にうごめいて雨を降らせる。庭に咲くライラックが風にゆれるとき、父の寝息がやすらかに春の訪れを告げる。
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