【詩集】春嵐

雨伽詩音

第1話残された大陸の詩人

月下に群れ咲くリラの花を夢見て目覚めれば、とうに日は暮れ、辺りは静まり返っていた。海へ帰っていった者たちの最期を思って重い体を起こすと、壁にかけられた絵画と目が合う。ヒューゴ・シンベリの傷ついた天使。あるいはワッツのDeath Crowning Innocence。天使と呼ばれた者たちも今は海の藻くずと消えて久しい。海の浸食により地上は徐々に削り取られて、今ではこのヨーロッパ大陸を残すのみとなっている。戦火も絶えて、人々はかつて築き上げた共同体への郷愁に胸を焦がし、この地を闊歩した詩人や哲学者に己を重ね、詩作し、あるいは思索した。AIに司牧される我らにはもはやなすべき仕事などない。積み上げられる詩集や哲学書の数々は人々の枕辺に、あるいは机上にあって、己を開く主人の指を求めて息をひそめている。書をひもとくことのない主人たちの指先からあふれだす文字は日々福音となり、かつての教会跡地の鐘は絶えず鳴り響く。詩人たらんとするこの私も、この世界でパンを購うのに不自由はしないとはいえ、それらを求めて外に出ることはない。私が求めるのは一輪の花、古書店の前に打ち捨てられた美術展の図録、旧世紀の前衛芸術のポスターばかりだ。零落した亡霊たちに囲まれて、私はパンにバターを塗り、幾らかの野菜を煮込んだポタージュを啜る。由緒正しき詩人の食卓。話し相手のかたつむりは今ではすっかりボードレールの詩を覚えてしまった。かたつむりの殻から流れてくる朗読に耳を傾けているうちに、私は再びうつらうつらと舟を漕ぐ。眠っている時間はどんどん長くなり、昼ばかりか夜をも浸食しはじめた。やがて私が醒めぬ眠りにつく頃、この大陸は海の底へと沈むのだろう。


2020.03.27

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