ファティマの聖母

彩戸ゆめ

第1話 20×9年。十二月三十日。武国、湖西市。

 その日、リン・ウェイロウ医師は、インフルエンザの疑いで入院して亡くなった患者から、病理検査でコロナウイルスの一種であるSARS(重症急性呼吸器症候群)が検出されたのを発見した。


 20×3年に流行したSARSは世界全体で774人の死者を出した。もしまた大流行が起これば大変なことになるだろう。


 そう考えたリン医師は、すぐに医学部の同級生たちと連絡を取り合っているSNSのグループチャットで、その危険を伝えた。SARSの感染力は非常に強い。きちんとした防疫措置を取らなければ、病院が感染源となってしまう。


 20×3年の流行時も、院内感染がその中心となっていた。


「海鮮市場で七人のSARSに感染した疑いのある患者が確認された。皆、くれぐれも注意して欲しい」

「SARSだって!? また出たのか」

「ああ。十分に注意しなければ院内感染の危険がある。少しでも兆候があるなら、診療の際はきちんとした防疫措置を取ってから診た方がいい」

「情報ありがとう。注意しておくよ」

「最近肺炎の患者が多いと思っていたんだが、SARSの可能性があるのか」


 同級生の一人が呟くと「うちの病院でも増えてきた」という呟きが続く。


 どうやら十二月の始め頃から肺炎の患者が増えていたようだ。もしそれがSARSだったとしたら、再流行の危険性があるという事で保険局から通達がくるはずだ。


 それがないという事は、それらの肺炎はSARSではないのだろう。だったら恐れる心配はない。


「ありがとう。そうだ、リン。奥さんと行くのにお勧めのお店が知りたいって言っていただろう? 美味いイタリアンを見つけたんだ」

「いいね。教えてくれるかな?」

「うちの病院の通りの――」


 ひとしきり会話を楽しんだリンは、PCの電源を落とすと椅子の上で大きく伸びをした。


 担当している患者が亡くなった時は、やはりどうしても気分が落ちこむ。仲間とのたわいもない会話を楽しんで気分をリセットしていたが、今はそれよりも良い気分転換がある。


 軽いノックの後、ドアが開いてリンの最愛の妻が姿を現わした。


「あなた、もうお休みになったら?」

「メイファ。もう休むよ。体調はどうだい」


 リンは立ち上がって、妻の体をいたわるようにそっと抱きしめた。そろそろ妊娠六カ月になるメイファのお腹は少しふくらみが出てきた。あと四カ月で待望の我が子と会えるのだと思うと、待ち遠しい。


「心配性ね」

「大切な奥さんと、これから生まれてくる子供のことを心配しない父親なんていないだろう?」


 そう言って、リンは妻の頭に軽くキスをした。

 メイファはその広い背中に回した手を軽く叩く。


「あなたの方が心配よ。お仕事が忙しいのでしょう?」

「……またSARSが流行るかもしれない。気をつけてくれ」


 一度は封じこめたというのに、また現れた。

 だが以前の流行の時の経験を生かせば、またすぐに封じこめることができるだろう。


「あなたも十分に気をつけてね」

「もちろんだよ」


 心配そうなメイファに微笑みかけると、リンはそっとその背中を押して書斎を出た。

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