第2話 オペラハウス

 あたしは今までこの話を人にしたことがない。


 あの女にいつか届くことを願って、この物語をはじめようと思う。どうすれば届くのか、今はまだ分からない。でも、言葉は巡り巡って人の間に伝わると思う。ある日、きっとあの女は、この話を目にすることだろう。それを信じて、筆を進める。


 記憶。記憶というものはいつ頃からはじまるのだろう? 薄暗い部屋の片すみで机に向かい頬づえをつき、心の中の細い糸をそろそろとたぐりよせる。糸は今にも切れそうになりながら、それでも幼なかったころの記憶の断片をところどころにくっつけて、暗い穴から上がってこようとしている。


 いびつな多辺形の、ひとつひとつを手にとって表面を袖口でぬぐう。磨りガラスをとおして景色を眺めるように、忘れかけていた記憶に向きあう。本当にあったことなのか、それとも自分の想像が作りだしてこっそりとしまい込んだものなのか、今のあたしは知らない。それでもそれは糸にぶらさがりながら、そこにある。


 目をあけると笑顔があった。誘われるようにあたしも微笑んでいたと思う。あお向けに寝かされていた座席の表面を覆うざらついた感触が、タオル地ごしにかすかに伝わってくる。顔を横に向けると、幾重にも肘かけが列をなして向こう側まで続いている。


 高くて広くて輝くような天井に視線が漂う。電球が不ぞろいに並んで、たくさんのお日さまのように見える。そろそろと目が戻ると、覗き込んでいる顔に再び出会った。そのとき、あたしは何か声をあげたかもしれない。まだ、誰かに伝わる言葉にはなっていない声を。


 しばらくして目の前から顔が消えると。あたりの空気がざわめき、さざなみのような揺らめきがやってきた。それがオーケストラがリハーサルで奏でる低い弦の響きだということをあたしは後で知った。やってきた音は肺を震わせると、そばでことことと鳴っている心臓の奥深く忍びこんだ。心臓は血を吸いこみ、吐きだしながら、この愉快な気分はいったいどこからくるのかしらんと、訝しんだにちがいない。


 あたしだって不思議でならない。ベビーベッドじゃなくて、赤ちゃん用の小さなゆりかごでもなくて、いったいどうしてこんなところに寝かされていたんだろう。


 しばらくしてあの女は、あたしを抱きかかえると座席と座席の間にある、薄暗い通路をとおって扉をくぐり廊下にでた。廊下はひんやりとして、くたびれた埃が時間をかけて降り積もったような匂いがした。


 女はオペラハウスの廊下の突きあたりにある鉄の扉を肩で押しあけると、地下につづく階段をくだった。一段くだるたびに闇はその濃さを増して行くように思えた。ところどころの壁に取りつけられた裸電球が、そばを通りかかる者の身を案じるように心細気に瞬いている。


 しばらくして階段が終わり、女は再び鉄の扉を押しあけると、その奥にある暗い廊下に踏みこんだ。


 女は少し歩くと立ちどまり、あたしを抱きかかえ直した。そしてまた扉をくぐったように思う。気がつくとあたしは、何か柔らかいものの上に寝かされていた。体には軽くて暖かいものが、そっと舞い降りた羽毛のようにかけられている。


 そばにはランプの黄色い光がなにもない部屋を薄暗く照らし出している。すぐ近くにあの女の気配があった。椅子に腰をかけ、背を丸めながら、時のたつのを静かにやり過ごそうとしている、たったひとつの影。


 あたしが目を覚まして泣くと、あの女はあたしを抱きかかえ、おっぱいをあげたのだという。どうしてそういうことができたのか分からない。だってあの女は、あたしを生んだのでも、誰かよその子を生んだのでもないからだ。


 だからおっぱいなんか出るはずもない。でも女はそれをあたしにあげ続けたのだという。その話を聞くといつも笑ってしまう。からかいに不慣れな顔をみつめながら。


 フロレン。たしかあの女は自分のことをそう呼んでいた。偽りのフロレン。悲しいことなど何もないのに、いつもうつ向き加減に歩いていた。夕闇の女。オペラハウスの暗がり。世の中は、あの女に対して無表情であり、無頓着だった。訪れる観客も、そばをとおり過ぎる彼女にまつ毛一本分だって視線を動かさない。


 あたしはそんな彼女に手を引かれて歩いていた。オペラハウスの管理人は折に触れて、あたしたちを見咎めると、くどくどと苦言を呈した。その度にフロレンは、口の中でもごもごと何か言っていたように思う。


 あたしはあの女の手をしっかりと掴んでいた。この世界で唯一差し出された、かけがえのない、ごつごつとしてざらついた不器用な温もりを。その感触はいつも心の片すみにひっかかり、事あるごとにあたしをあの時に連れ帰る。


 いつもあの女は、あたしを空いた座席に座らせると、倉庫からくたびれて大きな音の出る掃除機を持ってきては壁のコンセントにそれをつなぎ、無言で床に走らせた。その間あたしは、足をぶらつかせながら、彼女を目で追っていたが、やがてそれにも飽きてくると、一人でかくれんぼを始めた。体を隠す場所はいたるところにあった。


 フロレンは、ときどき顔を上げてあたしを探した。そんな時あたしは椅子の影から少し靴をのぞかせたり、スカートのすそをはみださせたりした。彼女はそれを見るとまた自分の仕事にもどっていった。ああ、フロレン、あたしはここにいるのよ。そんなことなんかほおっておいて、あたしを探しに来て! 何度、あたしはそう思ったことだろう。でも、フロレンはきまじめな女だ。自分の役割と世界に忠誠を誓っている。中世の異国に住む僧侶がその神に頭を垂れるように。どんなに狭量で歪んだ性格の持ち主が、神であったとしてもだ。


 ホールの片すみからもう一方のすみまで掃除をおえると、フロレンはあたしを探しにきた。そんな彼女のうしろ姿を見ながら、観客席の下から這い出て、あたしは自分の手を彼女の大きな手にそっと滑り込ませた。フロレンは、あたしの手を握りかえした。彼女のかさついた指の感触が、わずかにあたしを包みこむ。赤切れが狭谷のようになって、幾重にも筋をつけている指先、その丸さの中から暖かさが伝わってくる。


 あたしはフロレンと手をつなぐのが好きだった。彼女はこの世界の何百万分の一かをあたしに分け与えてくれた。それを思うと今でも泣きだしそうになる。いいや、あたしは泣いてなんかいない。あの女のことを想うと今でも胸がしめつけられるような思いがするだけだ。どうしてもっと、彼女にやさしくしてあげなかったのか? どうしてもっと彼女のそばにいてあげなかったのか? どうしてもっと彼女の言うことを聞いてあげなかったのか? どうしてもっと? どうして?

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