サブテラニアン
戸来十音(とらいとおん)
第1話 パスタ
その老婆に会ったのは、夕暮れ時のレストランだった。
店内は仕事を終えた人たちで混み始めていた。僕は、店の中程におかれたテーブル席について食事をしていた。缶詰からそのまま出されたようなトマトソースと、アルデンテをすでにとおり過ぎたパスタにうんざりしながら、それでも律儀に料理の盛られた皿をフォークの先でつっついていた。
誰かが、袖口を引っ張った。顔を向けると、猿のように小さく縮んだ老婆が、椅子にちょこんと腰かけていた。隣のテーブルとの隙間は、
僕は首を横にふった。老婆はじっと僕を見た。僕はもう一度、彼女に向かって首をふった。そして自分のパスタに戻った。
しばらくして、ちらりと覗くと、老婆は悲しそうな目をしてこちらを見ていた。
僕はあわてて目をそらし、再びパスタに戻った。パスタのことしか考えないようにした。僕はパスタが好きだ。パスタは僕を幸せにしてくれる。パスタは人類の宝ものだ。この世でパスタほど手軽でおいしいものはない。でも、どうして僕はよりによってこんなまずいパスタを食わせるレストランに入ってしまったんだ?
ため息をつくと、フォークを置き、僕は老婆の方を見た。僕は「それで?」と言った。老婆はきょとんとしている。僕は、どうしたのさ? って身振りで両手を拡げてみせた。老婆の口から出た言葉は僕には理解できなかった。外国人? 一応ことわっておくけど、この国では僕も外国人だった。ここで話される言葉はときどき僕には聞きとれなかった。だが老婆の話す言葉はそれとも違っているような気がした。ここからもっと遠く離れたどこか、よその地域からきたような感じがした。
老婆は手を伸ばすと僕の手をつかんだ。老婆の手は意外と温かだった。指先には力がこもっていた。ちょっとびっくりした僕は、素早く手をひっこめようとした。でもできなかった。老婆はじっと僕を見た。灰色の瞳で、探るように僕を見た。手をほどくと、もう一度老婆は、伝票と、手のひらに持っているお金を示した。そして再び僕の方を見た。今度は彼女は笑ってはいなかった。
しばらくためらってから、僕は伝票の金額をチェックした。それから老婆のお金を数えた。お金は、会計の額より多かった。ウェイターにチップを払ってもまだ十分な額が残る。僕はいぶかし気に老婆の顔を見た。老婆は、何度も深くうなずいた。まるでボートを漕ぐオールのように額と髪が揺れた。
僕は、腕をのばして老婆の手のひらから必要な分だけお金をとり、伝票に重ねた。それから指でウェイターに合図すると、伝票とお金を持っていかせた。しばらくたってウェイターはステンレスの小さな盆にお釣りを乗せてやってきた。老婆はその様子を、港を出入りする船を眺めるように見ていた。
老婆が盆に乗ったお釣りをとろうとするのを押しとどめて、僕はウェイターを指さし、お釣りを指さした。その意味がわかったのかどうかわからなかったけれど、老婆は盆に乗っている釣り銭はもう自分のものじゃないってことは理解したようだった。それを僕に伝えるために老婆は、かすかにうなずいた。
雲の切れ目から晴れ間が覗いたような顔つきになると、老婆はしばらく混み合っている店内を眺めていた。それからゆっくりと立ち上がった。次の瞬間、老婆の姿は消え、笑っている小さな女の子がそこにいるような気がした。僕は自分の目を疑った。瞬きをすると、幕が降りるように老婆の姿が戻った。そして僕におじぎをして、そそくさと行ってしまった。多分、昨日の夜遅くみた映画のせいだろう。
老婆のテーブルを片づけにやってきたウェイターは、チップの少なさに渋い顔をしたが、僕はそしらぬ顔をしていた。
ウェイターが行ってしまうと、僕はパスタの続きにとりかかることにした。でもパスタは完全に僕の興味を引かなくなるくらいに冷めていた。それでもかつて料理だったものの残骸をつっついていると、誰かが僕の肩を叩いた。見上げると、見知らぬ客が老婆の座っていたテーブルにつこうとしている。僕の視線をとらえた客は、椅子に目配せし、顎をしゃくった。見ると、老婆は椅子の背に、少し厚めの大きな封筒を置き忘れていた。客は僕がそこに置いたと勘違いしているようにみえた。僕は、急いで封筒を椅子からどけると、自分の膝の上に置いた。
客は鼻を鳴らすと座り、椅子を二、三度テーブルの方にカタカタと引きよせた。それは何かを僕に語りかけるように耳元に響いた。捕まえようとする瞬間に逃げてしまう、例の何かだ。
僕はもうパスタに戻れなかった。もうパスタはパスタじゃなかった。いやそれはまだパスタだったかもしれないが、もう僕の思い描くパスタじゃぜんぜんなかった。それは最初から僕の思い描くパスタからずいぶん遠くにあったけれど、もはや視界で捉えきれないくらい、はるか地平線の彼方に過ぎ去ってしまった。この世界が球形じゃなくて、平べったかったなら、パスタは海水の爆音とともに淵からこぼれ落ちてしまっていることだろう。
僕はパスタをあきらめて、ウェイターにコーヒーを注文した。今しばらくここにいようと思った。老婆が気づいて忘れ物をとりに戻ってくるかもしれない。そう思った。いや、もう一度、僕はあの老婆に会いたかっただけかもしれない。
それから一時間たったが、老婆は戻ってこなかった。僕は老婆が置いていった封筒を手にとって眺めた。なんの変哲もない茶色の使い古された幅の広い封筒で、何度も持ち運ばれたせいか、表面は擦り切れて、ところどころにシミがあり、角は丸くなってその一つは破れていた。僕は老婆がこの封筒を大切そうに胸に抱いて街角を歩いているところを想像してみた。
雨が降っていた。老婆の髪は濡れていた。彼女はおぼつかない足取りでどこかへ行こうとしていた。どこか遠くの暗いところへ。
咳払いがした。長居をした僕に対するウェイターの嫌がらせだった。現実に引き戻された僕は、手にした封筒をもう一度眺めてみた。封筒の口は糊付けされていなかった。中から何かの用紙の束が見えた。引き出してみると、くたびれた紙にびっしりと文字が書き込まれていた。僕の知らない言葉だった。
僕は紙の束を元に戻すと、ウェイターを呼んだ。僕はこの封筒をウェイターに預けようとした。でも彼に断られた。こんなもの店では預かれないという。どうせ預けてもゴミ箱に捨てられるのがオチかもしれなかった。僕は封筒を自分のバッグに詰め込むと、会計を済ませ店を出た。
家に帰ってから冷蔵庫に首を突っ込んで残飯を漁り、パスタの穴埋めをした。本を少し読んでから、風呂を済ませると柔軟体操をして、それからベッドに潜り込んだ。
その夜、僕は夢にうなされた。
夢の中であの老婆と一瞬、入れ替わった女の子が出てきた。女の子は、地下の暗い世界から助けを求めていた。喉が渇いてひもじい思いをしていた。彼女には寄る辺がなかった。暗闇の中で涙をこらえて、降りかかる苦しみにじっと耐えていた。僕はその側にいて、ただ見守ることしか出来なかった。
息苦しさで目が覚めた。
まだ真夜中だった。暗闇の中で半身を起こし、しばらく呆然としていた。僕は、部屋の明かりをつけると、ソファの上に転がっているバックを開け、封筒を取り出した。そして封筒の中から紙束を引きだすと、しばらくそれを眺めた。やはり僕の知らない言葉だった。
翌朝、僕は、言語サービスについて詳しい友達に相談した。彼はあるエージェントを紹介してくれた。僕はそこに出向き紙束を預けた。ある日曜の朝、郵便物が家のポストに投函されていた。中を開けると、あの紙束と綺麗にタイプされた原稿が請求書とともに入っていた。タイプされた原稿は、僕の読める言葉で印刷されていた。僕は台所へ行き、サーバーからコーヒーをマグカップに注ぎ、テーブルにとって返すと原稿を手にとった。それはこんな風にはじまっていた。
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