第26話 向こう者の向こうの世界

学生たちにとって、社会とは何なのだろうか。ここでいう社会とは、その地理とか公民とかそういったものではなく、純粋なソサイエティの和訳として充てられた社会である。




おそらくそれは学校であろう。




帰納的であり、少々こじつけにも思えるだろうが、中学校を卒業した時点では単純に15分の9年間、つまり人生の60パーセントを学校という場所で過ごしていることになるため、ある種、潜在的に学校という空間が自分のすべてのように思ってしまって当然であろう。


このようなことを言うのは少々阻まれるが、あえて言おうと思う。


無論一学生の戯言であるから、大したことではない。




学校というシステムがあるのにもかかわらず、学校に通えないものが地球上に存在していることは言うまでもないが、彼ら彼女らのインタビューをテレビや新聞で聞くと「学校に行きたい、行きたくてもいけない」と口をそろえて言う印象がある。もちろん、そうしないと例えば募金活動にならないとか、説得力がないとか、はたまたそういうように操作しているとかといった、まだ立ってもいない煙の勘定をするようなこともありえなくはないが、彼ら彼女らがそう答える理由として、社会への参入の義務の意識があるのではなかろうか。または、小鳥が自然と巣を離れるように外の世界へ踏み出さねばならないといった意識があるのであろう。


彼ら彼女らは勉強をしたいのだろうか、俺に言わせればそれは違う。


彼らは社会という存在に認められたい、社会の一部になりたい、そういった意識が先立っているのではなかろうか。




だから、算数をやる、物理をやる、古文漢文を学ぶといった意味での学校というのはいってしまえば必要ないのである。別に個人で勝手にやればいいの出る。むしろ解答だけコピーアンドペーストしているような者たちにとっては ほかの勉強をした方がよっぽど有意義というものだ。あくまでも現存する学校という組織は個人の勉強や国民のレベルの底上げを効率化するというものの上に成り立っているのである。それは一人でうんうんやるよりも、わかっている人間に教えを請う方が ある程度のレベルの到達においては、よっぽど習得が早いのは目に見えている。


いまだに軍隊式の学習法が残っていたり、よくわからずに暗記を強要させる授業が存在するのは、できるだけ早く使い物になるような兵を育てるといった教練、つまり一定レベルまでの引き上げの効率を重んじていたことによるものであろう。




だから、結局学校というのはあくまでもシステムであり、そういう名の社会なのである。




しかしそうであるからこそ、それは恐ろしい。


そのシステムから何かしらの理由ではじかれたものは、そこに顔向けできなくなってしまうのである。どこか罪悪感に似た感情が芽生えてしまう。俺に言わせれば、それは決定的に罪悪感とは違うものであるのは確かだが、その正体はわからぬ。


遠ざかれば遠ざかるほど、その間の空間の層は重く、濁って見える。


別に特段固いわけでも厚いわけでもないのだ。コンと一突きしてやればすぐに外界とつながってしまうのであろう。


簡単に粗雑に言えばやるにやれなくなってしまうのである。


俺はこの苦しみや複雑さを多少はわかっているから、自分がその外界との壁について表現する上での適切な単語を抽出できていないことに嫌悪感を覚えている。




俺自身は、そう思うからこそ、軽々しく学校に行こう、行けなんて言えない。


その重圧や、恐ろしさ、胸を突き刺すような空気というものを容易に想像できるからだ。






しかし、俺が、追浜の弟の部屋を見たとき、彼の部屋は彼自身が作った監獄のような空間を彷彿とさせなかった。俺個人はそれと全く異なった感覚を得た。


なんというか、世界の偉人の研究室のような風潮であったのだ。


無論、綺麗ではないし、どちらかといえば汚い部屋だった。しかし、彼自身が彼の秩序に沿って自身の部屋の中の配置を定めているように感じた。机の上は、シャープペンシルと消しゴム、赤と青のボールペンが自然においてあり、それなりの量の消しゴムのカスがあった。雑に積まれた本、紙。だから、彼は引きこもりではないと思ったんだ。あれだけのものを引きこもりだったら用意できないし、もっと無秩序に自身の身を生存させるための部屋になっているはずだ。


彼はあの部屋で、良し悪しや偏りはあれど、成長していたのだ。


そうして、そのような自己を持った、まともな奴ほど孤立するのが学校だ。大衆からすれば、その存在は“ヤバイ”存在だから。自身とは違うから、群にはなり得ないから、孤立する。


ここからは“完全“な想像であるが、俺が見たところ、彼はテストの成績はよくない。試験の成績が良ければ、とりあえずは学校に行けるという状態にはなるからだ。先生からは良い目をされるから、生徒たちも迂闊に手を出せない。だが、彼は最低限の学校生活を送っていた。だから、彼はまともで、おそらく頭は良いけれど、テストの結果は良くないのではなかろうか。




結局は人間の住む世界は人間が作り出したものに過ぎないのである。


自然だって、神だって、ビルだって、結局は人間がそうだといったから存在しているだけなのである。無論、人間がすべての創造主であるといったようなことを言いたいわけではない。人の認識の外界にあるものは存在しないものとして扱われるのである。


今日の“神”に当たるものを、我々の祖先たるものが存在アルファと言ってしまっていれば、それは今日においてもアルファと認知され呼称されるようになってしまう、そのようなもろさを“存在”なるものは有している。


これは、同様にして社会における存在においても置換して考えてみることができよう。


その社会に存在するには、認知されなければならないのである。




だが、認知されない者もいる。


いや、認知の外に置かれる人間がいる。




自然や神やビルの論から言えば、その人間の存在は否定しようがないのである。


粗末に理由を述べれば、どう考えてもその人間は彼らの目に移りこんでいるからだ。


しかし、システムという要素を含む社会では意識の範疇で無意識を操作し、無意識の範疇で意識することが起こりえるのである。






だから、結局、彼を取り巻く空間は変わらない。


学校なんぞに行ったところで、追浜の弟は同じ仕打ちを受けるのであろう。




だから俺は損得勘定をしたのである。


姉という後ろ盾のもと、彼の中に学校という空間を介在させたのである。


彼が学校に組み込まれるのではない、学校が彼の中に組み込まれるのだ。






そう、思考が俺の脳内で結ばれると、異様なほどに時計の針の音が耳から侵入してきた。




こんなことを学校で考えている俺は、少なくとも この社会における向こう者なのであろう。


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