第8話 その後ろ姿に駆け寄るための何かを俺は持ち合わせていない
学校祭というふわふわとした俺にとっては非常に居心地の悪い空気の中、各クラスや団体の展示物の準備のほとんどは実際の展示物を製作し始め、廊下を歩くと、不慣れな感じの金づちの音やペンキのシンナー臭いにおいを感じることができる。
俺のクラスも例外ではなく、うちのクラスの理系の奴らがなめてかかっている、地理の時間中はA6サイズほどのメモ用紙が教室内を横断する。窓際後ろの座席には今日も平和に5月の暖かな日光が差し込む。あと40分は少なくとも郵便物は届かない。俺自身は地理をなめているわけではないが、つまらないと思うのは事実だ。何となく背もたれに上半身を委託し、腰を前に滑らせる。床に落ちた俺の影を見て、目ですっとその淵をなぞるようにして顔を持ち上げると、雪宮がヨーロッパの地図を描いている。どうもシチリア島のあたりが気に入らないようで、何度も書き直している。ブーツのつま先にそこまでこだわるのかとも思うが、彼女はただ講義を記録しているだけで、特にこれといったこだわりはないようにも感じる。
その後も授業を受け、チャイムが今日の授業の終わりを告げる。今日も教室横断郵便配達サービスは俺の元に届かなかった。
業務終了の鐘が、彼らにとっては青春の輝きの始まりを告げているらしく、空気が瞬く間にふわりと宙に浮くような感覚を覚える。
いつも通り教室を出ようと腰を上げると雪宮もそのつもりだったらしく、すっと椅子を引いて立ち上がった。椅子に座っている状態から二足歩行に移るまでを切りとっただけでここまで違うかと言わんばかりに俺の腰は今日も椅子に引き付けられる。
かのアイザック・ニュートンで知られる万有引力の法則によれば互いの質量の積に依存してその引き合う力は大きくなる。だが、俺と椅子の質量の積なんぞ高が知れている。もしかすると、俺と椅子の間を物理的に考えると新たな力が発見されるかもしれない。
...あぁ そうだ、要は今日も疲れた、帰りたいということだ。
「何あんたら、二人そろって どこ行くの?」
耳障りな発言に嫌味な言い方で俺の苛立ちは3割増し、発言者の推測で3割増し、振り返って予想的中で5割増し、何を隠そう、一連の割り増しセールの主は神崎だ。
「別に俺は会議室に行くだけだが何か。」
「あんたには聞いてないんだけど。」
じゃあ、発言の語尾に間投詞をつけて呼びかけろよ、なんか応答しちゃって恥ずかしいじゃん。
「私も彼と同じよ、神崎さん。」
雪宮はいつも通りのイメージで答えていたが、そこに妙な冷静さ、いや冷淡さがあるように感じた。
「いつも放課後二人で出て行ってるし、こないだなんてなんか話しながら帰ってたじゃん。みんなクラスの準備で遅くまで残って頑張っているのに、何 楽してんの?」
「あら、ずいぶん私のことを見ているようね、でも横に立っている男性と帰った記憶はないわ。」
「通用門のところ、一緒に出てたじゃん。」
「みんな帰るときはあそこから出るものよ。あなたには廊下の窓から見える一二年生達がただ帰路についているように見えないのかしら。」
「あっそ、別にどうでもいいけど。」
どうでもいいなら、俺を早くこの状況から離脱させてくれ。
「で、あなたは私が楽をしているといったわね、神崎さん。私たちは飯田先生に言われて実行委員会に参加しているの。だからクラスに手を貸すのは物理的に無理があるの。それに、クラス展示をやるなんてこと聞いてないし、作業内容の説明もない。それで私に何かを要求する権利があなたにはあるのかしら。」
そういえば、以前平井と話したが、やはり雪宮にクラス展示の連絡は行っていなかったようだ。
「みんなやってるんだからやればいいんだよ。そうやって理由をテキトーにつけて結局 何もしてないじゃん。」
何もやってないだ、テキトーだ、知りもしないでペラペラとよく言うものだ。
お前らは、何の連絡もしないで、テキトーな批判をしているんだ。
俺は、腹の底で何かが沸騰して紙風船が割れるような感覚に襲われた。
「おい、知らねーことをそう、ペラペラぬかすなよ...」
妙な力みを含んだ俺の言葉は、雪宮の強く張った細い弦をピンと弾いたような声で切り裂かれた。
「テキトーな理由で何もしていない?じゃあ、あなたは何をしてるの?昨日までを見る限りだと、道具はもたないし、話すだけで、ただ教室内を浮遊している。あなたのいる体積を作業スペースにする方が賢明だわ。追加で言わせてもらえば、あなたの部活とこのクラスの展示、明らかに予算オーバーだったわ、けれど委員会が予算の根回しをして、作業を前倒ししているからあなたはここで準備云々といえるのよ。まだ出てくるけれど、それらがテキトーな理由で私と彼がただ会議室で何もしていないと吠える気はまだありますか。」
教室内が異様なほど静かで、空気がすっと引いて低酸素状態にいるかのような息苦しさを覚えた。鋭利に、強く放たれた彼女の発言は、俺の苛立ちを凌駕する力を持っていた。
雪宮は自分の発言に自信はあるものの、我に返って改めて状況を把握したというように見えた。
「ということで、私は忙しいので。」
そう締めをそこにおいて雪宮は教室を出た。
俺も追うように教室を出る。
教室を右折した雪宮の姿を見て、俺は妙な距離感と、近しい雰囲気を感じた。
今日は教室を左に曲がろう。多少遠回りだが、それでいい。少しはいい運動になるだろう。
そう自分に言い聞かせて俺は半回転して歩き出した。
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