第11話 母との約束
慎一はICUから霊安室へ搬送されていった。
慎一の母、敬子と有紀は突然の別れに悲しみに暮れていたが、有紀は直ぐに葬儀社の人間だという者から名刺をもらったり、息をつく暇もない感じで慎一がこの世からいなくなったことを実感し始めていた。
二人は手続きや支払いについて病院の事務と話した後、病院を出て近くのファミレスで朝食を摂ることにした。
しっかりしなくちゃ、と義務的に箸を口に運ぶが、味覚は何も感じない。
敬子が口を開いた。
「慎一がオートバイに乗ることを、私は最初反対していたの」
敬子は慎一の死の原因を間接的に作ったのは自分であると責めているようであった。有紀には何と答えてよいか分からなかった。
敬子は訥々と語り始めた。――
敬子は交通機動隊だった夫、慎三が事故で亡くなり、一人息子の慎一が高校を卒業して家を出た時からずっと独りで宇都宮近くの上河内に一人で住んでいる。
近くには妹夫婦も住んでいるため別段不便はないが、十八年間三人で暮らした一軒家に自分独り取り残されてしまった事で気分が塞ぎがちになっていた。
慎一が中学生になったころから、息子の慎一が慎三の影響でバイクに乗りたがっているのは知っていた。否、むしろ、慎一がバイクの免許を取ることを求めれば容認するつもりでいた。
慎三はよく幼い慎一を愛車Ninjaのリヤシートに股がらせて走った。
黄金色の田園の中を、長く続くニッコウキスゲの街道を、つづら折りの坂道を。暑い時も寒い時も慎一を乗せて走った。
慎一は、父が強くブレーキをかけるのが好きだった。父の背中にギュッとできるから。そして父と一体になってカーブを曲がってゆくスリルと、安心感もとても好きだった。
慎一は、
「早くお父さんみたいな白バイ警官になりたい! お父さんに訓練してもらうんだ!」
とよく言っていたのできっとオートバイの免許はすぐにとるだろうと予想していたのだった。
しかし、慎一の父への淡い憧れは突然終わりを告げる。
国道四号線を警ら中、暴走する車の制止のために追跡を始めた慎三のCB750の白バイ仕様車に、暴走車は卑怯にも突然慎三のバイクに向かってハンドルを切りながら急ブレーキをかけた。
慎三は機動隊の技能研修を受け持つ大ベテランであった。訳なくその急襲をかわした。ところが明らかな殺意を持った暴走車に後ろから追突され、慎三は、帰らぬ人となった。
あれほど技術があり、慎重な性格だった慎三を失い、敬子はバイクに対する考え方を改めざるを得なかった。夫ばかりか最愛の息子まで事故で失う事が怖かったからだ。
どんなに技術があっても、死ぬときは死んでしまうんだ。そう思うといつか慎一がバイクの免許の取得を願い出たらどんな事をしても止めるつもりだった。
慎一は結局高校在学中はその事に触れなかった。敬子はきっと慎一が父親が殉職した事を重く受け止めているのだと、そう思っていた。
蓄えは多くはなかったが、敬子はエンジニアになるのが夢だと高校の工業科へ進んだ慎一に、十分な教育を与えようと思っていた。
しかし、負担を掛けたくない、と慎一は進学を諦めらようなことを言う。
「お金のことなら心配しなくていいのよ」
と敬子は言ったが、慎一は頑なに固辞したのだった。
家族会議として何度か話し合いを持った。敬子の妹聖子にも説得に加わってもらったが、慎一は進学を拒んだ。
進学するわけではないので、勉強もやる事もなく、慎一はバレー部の後輩の練習に付き合う毎日を過ごした。
バレーをやっている時は熱中できたが、練習が終わると空虚な気持ちになった。
自分で決めたことだ。
自分が決めたことだけど。
慎一は、ある日、「就職が決まった。目黒の町工場。家を出て行く」
と、敬子に告げた。
どんな会社なの? 住むところは? と矢継ぎ早に聞くが、どうにも要領を得ない。
じっと敬子の目を見返して、慎一は言った。
「いままで育ててくれて本当にありがとう。もう、お袋は楽になって良いんだ。俺は俺の道を行くよ」
敬子は初めて慎一の覚悟を聞いた。
小さいころ、いつも敬子の後ろに隠れて泣いていた慎一。慎三の死が、ひょっとすると慎一を大きくさせたのかもしれない。
敬子も覚悟を決めて言った。
「人様に迷惑を掛けなければ、母さんは良いわよ。でも忘れないで。いっでもここがお前が帰って来て良い場所なんだよ。無理だけはしないでちょうだい」
慎一は小さく頷いた。
「ああ。心配はかけない」
心配しない親なんていない、と、言いかけたが、敬子は思いとどまった。
慎一の決意を茶化したくなかったから。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
慎一が出て行って半年くらい経ったある日、敬子は親戚から一本の電話を受けた。
「慎一君、この間の四時間耐久レースで優勝したんだってね」
寝耳に水とはこのことだ。
直ぐにタブレット端末で検索すると、小さな扱いではあったが優勝して表彰台に乗ったわが子 --慎一が ニュースに載っているではないか。
連絡先も告げずに東京へ出て行った息子がこうやってオートバイのレースをしていることなど夢にも思っていなかった。
嬉しいなどとは微塵にも思えず、ただただ慎一に裏切られたという一心で、連絡先を検索し、ようやく東京の中目黒にある「エグゾーストノート」というオートバイショップにたどり着いた。
敬子は電話をし、電話先に出たエグゾーストノートの社長、川口健三に事の経緯の説明を求めたところ、川口は平謝りでとにかくご挨拶に、と押し切ってきた。
まあ本人も同席するとのことだったので敬子は川口の訪問を受けることにしたのだが、冷静になって考えてみると頑なに行先を言わなかった慎一の問題であって、これは川口の責任ではないのでは、と思うようになった。
川口健三と慎一は、今までのことを詫び、これからのことについて承諾を得るため上河内を訪れた。
敬子は無言で 時折慎三の遺影を見やりながら目を閉じるばかりであった。
いたたまれなくなった川口は、
「お母さん、慎一君の将来は私が決められることではありません。ですが、私なら、慎一君の夢を叶えてあげるお手伝いができると信じています」
と口火を切った。
敬子は重い口を開いた。
「川口さん、とおっしゃいましたね」
重苦しい感じで返事を返した。
「あの子の夢、といまおっしゃいましたが、慎一はオートバイのレースをやることが夢なんでしょうか? 私には一言も言わなかった」
川口が答える。
「もっと早くお母さんに本当のことを話したかったんだと慎一は、いえ、慎一君は言ってくれました」
慎重に言葉を選びながら答える川口。
「恥ずかしながら、慎一君のお父さんがバイクで亡くなった事、お母さんに内緒で私どもの店で働き出したこと、お母さんからのお電話を頂くまで私は全く知りませんでした」
言い訳がましいと思ったのか川口はすぐに言葉を継いだ。
「責任逃れで言っているのではありません。大切なお子さんをお預りしている事をもっと早くお母さんにお伝えすべきだった。私は経営者として失格です」
「いえ、川口さん。この子なら、どんなことがあってもあなたに本当のことは言わなかったでしょう。何度もあなたは私と話しをしたいと持ちかけてくれたはずです」
「それはそうですが、しかし」
「多分慎一は私が病弱で合わす事ができないとか何とか言ったんでしょう」
その通りだった。
18歳の就職である。個人商店は小さな職場なので信頼関係が一番必要とされる。
慎一の身元をきちんと把握しておきたかったが、慎一はのらりくらりと、時として頑として彼は川口の上河内訪問を断った。
「この子は人一倍気を使うのです。でも、自分のやりたいことはどうしてもやりたかったのね」
川口は頷く。
「あの人があんな亡くなり方をしたので、私はオートバイに乗るなんて大反対だったけれど、慎一がバイクに乗りたいと言い出したら許すつもりだったんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。父親の影響を受けていましたからね。もう、既成事実があるし。でも、私に隠してたのは許せないわ」
川口は心中そりゃあそうだよな、と思った。
「でも、この子はこの子。私の勝手な思いで縛ってはダメ。一人の男として認めなければならないのかもしれないわね」
川口は思いもしない敬子の言葉に驚いた。
慎一は黙って下を向いたままである。
「慎一、顔をお挙げなさい」
「はい」
慎一は心配をかけたくなかったが、いつしかレースの世界に没頭してしまいそのことを忘れかけていたのを恥じていた。
「ひとつだけ条件があるわ。これを守るならレースを続けなさい。できないなら乗るのを止める事」
「どんなこと?」
「簡単なことよ」
「え?」
「レース以外では、死なないこと」
慎一はどういう事だ? という顔をした。
「あの人は仕事のなかで亡くなった。あなたはこれからレース一色になるでしょう。レースではどんなことが起きるか分からないから、もし事故死んだとしても私には息子はいない、そう考えることにするわ、お母さん」
敬子が放った条件重い一言だった。
「か、母さん…」
慎一が呼びかけたまま絶句している。
川口が助け舟を出す。
「レースでも死なせません。私は若いライダーがレースで散っていくのを何度も見てきた。その度に思うことがあります」
敬子は川口の言葉に耳を傾けている。
「レースで死なないこと、これって自制のいる、勇気のいることなんですよ。速いマシンに乗っているライダーは必然的に速く走りたくなる。それを抑えなさいって言うことですから」
一呼吸おいて、
「私は慎一くんをしっかり育てます。レースでも死なせません」
敬子は川口の誓いに答えた。
「この世の中に、絶対なんて事は人はいつか死ぬということだけよね。でも川口さんがいうならきっと大丈夫のような気がします。どうか息子を分別のある人間に育ててください」
父親の葬儀でも涙がなぜか出てこなかった慎一の頬に、一筋の熱い涙が伝っていた。
「心配するフリして、自分が苦しくなるのを嫌がっているだけなんだわ」
そう敬子が言うと川口は、決意を語った。
「いえ、慎一君はお母さんの気持ちをよく分かっている本当にいいお子さんです。私が責任を持って慎一君をライダーとして、社会人としてひとり立ちできるまで、しっかり面倒見ます」
ツクツクホウシがけたたましく鳴いている。もう少しで秋の訪れはもう少しだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
有紀はそんなことがあったのか、と頷くばかりであった。
「お
敬子はにっこりと笑って、
「ええ、聞きたいわ」
と応えた。
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