第3話 絶望の淵
光輝が日野駅を降りたときは既に午前零時を回っていた。
慎一と
荻窪あたりで降り始めた雪は本降りになり、光輝の自宅へ続く坂道をうっすらと覆い隠してしまっていた。
自分のほかに二、三本坂の上に続いている足跡を辿るようにして、一歩一歩坂を登ってゆく。息が白い。
ふと振り返ると、日野の市内の灯りが滲んで見えた。
白石家は門燈は点いていたが、家の中の灯りはすべて落ちていた。父・哲朗も母・淑子も就寝してしまったようだ。
光輝は玄関で靴を脱ぐとすぐにリビングのシャンデリアを模した蛍光灯を点け、そこらへんに着ていたカナディアン・グースのダウンジャケットを無造作に脱ぎ捨てた。
脱衣所でうがいをすると、バスタオルで雪で濡れた頭を拭きながら今日放映されたドラマ「きみが心に棲みついた」の録画を見始めた。
オープニングでヒロイン役、吉岡里帆が下着姿で出てきたので光輝が身を乗り出した刹那、光輝のスマートフォンが鳴った。
「こんな時間に誰だよ」
と舌打ちしながら電話に出た。有紀だった。
「光輝なの?」
「あ、ねえちゃん? どうしたこんな時間に」
「慎ちゃんは?」
「何言ってるんだよ。 慎一さんとは高円寺で別れたよ?」
そう光輝が言うと、有紀は絶句したままになってしまった。
「慎一さん、まだ戻らないの?」
有紀は涙声で
「慎ちゃんまだ帰ってこないの。何か、何かあったのかな..」
もう1時間半は経っている。
高円寺の駅から善福寺までは10分もかからないだろう。明らかに帰っていないのはおかしい。それでも姉を落ち着かせるために、
「慎一さんなら大丈夫だって。気にしすぎだよ」
そう光輝は言った。
「そうだよね?そうだよね?」
有紀は何度も自分を納得させるように繰り返す。
電話を切った光輝は、急に不安になった。それでも
「慎一さんに限って、そんなことはないよな」
と、自分を納得させようとした。
「だって、慎一さんはチャンピオンなんだぜ?」
そう独り言ちたが、光輝は胸騒ぎが収まらなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
有紀のスマートフォンの着信音が鳴ったのは、午前二時を回ったころだった。
電話の主は、慎一の母、敬子からだった。
「有紀さん、さっき、松庵労災病院というところから慎一が担ぎ込まれたって・・ 」
有紀は強い衝撃を受け、スマートフォンを落としてしまった。
慎一の帰宅が遅く、つい先ほどまで電話で弟の光輝と心配していたばかりだったので、不安が的中して心が今にも壊れそうだった。
それでも有紀は気丈に振る舞い、電話を拾いなおして、
「お義母さま、本当ですか?慎一さんは・・」
「有紀さん、私もさっき電話を受けたばかりで事情がよくわからないの」
有紀は敬子の声も動揺しているのを感じた。
「ただ、事故を起こしたようで、身に着けていた慎一の免許証の本籍地から私のところに連絡が先にきたみたい・・」
有紀は絶句した。
「まさか、普通の道路で事故を起こすなんてね。私は朝にならないとそちらには向かえないから、申し訳ないけど、有紀さん先に松庵労災病院に行ってくださるかしら?」
涙声で有紀は、
「ええ、わかりました。状況が分かり次第連絡いたします。お義母さまもお気を確かに」
「有紀さんありがとう。心配かけるわね。始発までまだ時間があるけど、私は眠れないし何かあったらすぐ電話頂戴ね」
「わかりました」
電話を切ると、有紀はふと窓の外を見た。
世間は眠りに入っているようで、灯りの燈っている家は少ない。
さっきまで降っていた雪はもう止んでいることを今知った。
空はすっかり星空に変っていて、青白く瞬く星に一瞬心が奪われたがすぐに思い直して「松庵労災病院」の電話番号をスマートフォンで調べ始めた。
松庵ならタクシーでそれほど遠くない。
しかし、有紀はずっと慎一が心配で気が遠くなるような錯覚に囚われ続けている。
「神様、慎ちゃんがどうか無事でいてくれますように」
祈るような気持ちで、スマートフォンで松庵労災病院の電話番号を検索しようとしたが、手が震えてなかなか目的のページにたどり着けずにいた。
それでも何とか松庵労災病院の番号を見つけると、そのまま電話番号を押して相手が出るのを待った。
有紀は怖かった。電話をして、何かが分かることがとてつもなく怖かった。
有紀にはコール音が続いている短い時間が永遠に思えた。
しかし、電話先の声がその思いを破った。
「はい、松庵労災病院です」
有紀は躊躇しながらも、
「わたくし、白石と申します。 そちらに救急搬送された風戸慎一の婚約者なのですが」
2秒ほどの沈黙があった。
「こちらにお越しいただけますか?」
「風戸の容態はどうなんでしょうか?」
「電話では詳しくお伝えできません。 可能な限り早くこちらにいらしてください」
詳しくはお伝えできないって、一体全体、どういうことなんだろう。
有紀はとにかくタクシー会社に電話をして、慎一の待つ病院に向かうことにした。
有紀の中で、ドス黒い不安は首をもたげ、そして大きく育っていった。今では心のほとんどを支配されているような状態だといっても過言ではない。
タクシーの配車を終えると、今度は弟の光輝に連絡を取った。
光輝は2コールで出た。
「光輝、慎ちゃんの搬送先が分かったわ」
「姉ちゃん、それって、慎一さん事故ったってこと?」
「それは間違いないみたい。でも、容態が分からないの」
「お父さんを起こして、僕もそちらに向かうよ。なんて病院?」
「雪が残っていて、道が悪いから電車できて。始発で」
「でも」
「お父さんや光輝まで事故起こしたらどうするのよ!」
最後は涙声だった。
間もなく階下でタクシーがハザードランプを焚きはじめたのが見えた。
有紀は決意を固めたように口を真一文字に結び、ルージュを引いた。
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