白き獣の少女 3
街灯の小さな光と、街の光に負けた弱い月の光に照らされた住宅街を、一人の…いや一匹の白い獣が歩いていた。
その顔は悲しみと不安に満ちていた。
自分の足元を見ながら、不安定な足取りで歩くその姿は、はたからみれば親に叱られた子供のように見えるが、その頭の中では記憶のない苦しみがぐるぐると回っているかのようだった。
わたしが誰かも、どこから来て何をしたいのかも分からないまま歩き続けた。
頭の中では何度も自分の昔のことを思い出そうとするが、何回やっても思い出せなかった。
自分が人間だったということは分かるのに、その生まれた時間も場所も…生みの親のことすら何も覚えていなかった。
その心に穴がポッカリと空いたかのような喪失感が、自分の体を包み込んでいるかのようだった。
そんな中出会った、恐ろしい見た目の悪魔達。
彼らは自分のことを悪魔と名乗った。
その得体の知れない生き物と対面したことによる未知の恐怖は今思い出しても恐ろしかった。
分からないことだらけで頭の中がいっぱいになるが、そこでふと思い出した。
「助けてもらったお礼…ちゃんとできなかったなあ…」
倒れていた自分を助けてくれたお礼がまだだったことを思い出したが、最早それを言いに戻ることはできなかった。
自分がどこにいるのかも分からなくなっているからだった。
その頃、悪魔の住むアパートの部屋の中では、黒いシルクハットをかぶった一人の悪魔、ディメがその場を行ったり来たりを繰り返していた。
「はあ…いい加減落ち着いたらどうだ?」
白いとんがり帽子をかぶった目玉頭の悪魔、ファジーがそう言うと、ディメはファジーの方を見ずに歩き続けながら答えた。
「落ち着く?そんなこと言われなくてもわかってる!」
「わかってるんならそうやって目の前で歩き続けるのをやめろよ。鬱陶しい」
ディメはファジーに詰め寄った。
「いいか?あの子はまだ年端もいかない子供だ!非力で無知で…あと見た目が可愛い…とにかく!そんな子供が夜に一人で出歩くなんて危険すぎるだろうが!」
顔がくっつくほどに詰め寄られ、ファジーはたじろいだ。
「あー…ならお前もとっとと探しに行けばいいだろ」
「いや、俺はあくまでも司令塔だ。自分で汗水流して動くことなんかしない」
(心配してんのかしてないのかはっきりしろよ)
「何か言ったか?」
「心の中を読むんじゃねぇ!」
「安心しろ、“はっきり”までしかわからなかった」
「…」
ファジーは左手で頭を抱えると、一人用のソファの左右それぞれの肘掛けに背中と足を乗せると、気怠そうに寝そべった。
「子供の足でそんなに遠くに行けるわけでもないし、心配しすぎだろ」
「いーや!もしものことがあったらどうする!夜間に襲われたり、変質者に捕まったり…もしかしたら身売りに捕まって夜の街に放り込まれてるかも!」
ディメは先ほどよりも早いペースでその場を行ったり来たりを繰り返した。
ファジーはその様子を見てより一層気分が悪くなるのを感じだが、ふと疑問に思ったことを口にした。
「…なあ、この際だから聞くが…何でそんなにあのガキに固執するんだ?」
足早に歩く音が少しゆっくりになった。
「一体何が、何がお前をそうまで駆り立てるんだ?どうしてあのガキを手元に置いておこうと思わせるんだ?」
歩く音が完全に止んだ。
その音を鳴らしていた自分の足を見ながら、ディメは話した。
「…単純な話だ。もしかしたらあの子が俺の目的のための鍵になるかも知れない」
「どういうことだ?」
「もしあの子が強力な力を秘めていたら?その力で頓挫しかけている計画が実行できるようになったら?」
「あんなガキにそんな力があるようには思えないね。よくて弱虫毛虫の逃げ足の速さくらいはありそうだがな?」
ファジーは馬鹿にするかのように笑った。
しかしディメは真剣な声で続けた。
「その弱虫に大いなる力が…もしかしたら俺ら悪魔よりはるか上位の力を有しているかも知れない。そうでなくても、記憶がないという恐怖心が強力な悪魔へ至るための鍵になるかもしれない…」
ディメはファジーの目(正確には目玉)を、真っ直ぐに見つめた。
「…そうでなきゃ、俺はあいつを…」
その時、どこからか木琴を叩いたかのような軽快な音楽が聞こえてきた。
「失礼」
ディメはズボンのポケットからスマホを取り出すと、すぐさま着信に出た。
それを見て、目玉頭のどこからか舌打ちの音を出すファジー。
「どうした?」
『ディメ、それらしいのを見つけたぞ』
「!どこにいた!?」
『あー…非常に説明しにくいんだが…』
「…どこに、いる?」
『…はあ……車だ』
「…なに?」
『白いボックスカー。その中に写真と同じ、それらしい形の熱源がいた』
「…どういうことだ…?」
『そのままの意味だ。ガキは車で運ばれている…誘拐されてな』
夜道を歩く白い少女の前に、三人の若者が立ち塞がった。
それを避けて進もうとするが、道を阻まれてしまった。
「おいおい、こんな夜道で子供が一人でどうしたんだ?迷子か?」
「綺麗な毛並みだなぁ…ここら辺に獣人なんて住んでたっけ?」
「まあそんなことはどうでもいい…タイミングは丁度良かったがな」
少女は不安げにその三人を見上げていた。
「あ、あの…わ、わたしに何か御用で…しょうか…?」
「いやいや、俺達はな、こんな夜道を一人で歩いている君が心配で声をかけたんだよ」
「お父さんとお母さんはどうしたのかな?ん?」
「家まで送ってあげようか?迷子なら交番まで連れて行ってあげよう」
三人の男達はそう言いながらにじり寄ってきた。
それに対してトモは後ずさった。
「わ、わたしは…だ、大丈夫なので.お、おかまいなく…」
「おいおい、そんなこと言うなって。もしここで君を置いて行ったら明日の寝覚が悪くなっちまう。だからここは俺たちのためを思って送らせたからよ?な?」
「ま、間に合ってます…!」
トモはそう言いながらその場から立ち去ろうと振り返るが、後ろから腕を掴まれてしまった。
「そんなこと言わないでさ!」
そう言うと、先頭に立っていた男が手に持ったハンカチで、驚いて動けなくなっていた少女の口を覆った。
少女はなんとか逃げ出そうと暴れるが、徐々に意識が遠のいていくのを感じた。
目が閉じるまでの僅かな時間で最後に見たのは、自分が逃げ出してしまったあの悪魔の住んでいる家までの道のりだった。
薄れる意識の中で最後に思ったのは、感謝を伝えられなかった後悔の念だった…
男達が獣の少女を車に詰め込み立ち去ったすぐ後に、人間の目と同じ大きさの目玉が、近くの電柱の陰から浮いて出てきた。
その宙に浮くつぶらな瞳の視線は、遠くなっていくクルマに向けられていた。
「…スナックが6階にあるビルの地下の空き部屋に入って行った…と…」
スマホを人間の顔でいう耳にあたる部分にあてながら、ディメは電話先の相手と話し込んでいた。
「わかった。引き続き監視しててくれ。何かあったら連絡しろ」
ディメはスマホの画面の通話終了ボタンを押すと、ファジーの方へ顔を向けた。
「場所がわかった。すぐに出るぞ」
「待てよ」
部屋から出ていこうとするディメをファジーが呼び止めた。
「さっきの質問の答えをまだ聞いてない」
無言の時間が流れる。
ディメは振り返った。
「…似てるんだよ…」
「…何に?」
ディメはシルクハットの束を掴むと、それを目深に下げた。
「…知り合いに似てるんだ!」
「はあ?」
「…最初に倒れてるあいつを見ても何も感じなかったし、声をかけようとも思わなかった。…だが何気なしに見たその顔は…俺の…昔の知り合いに似てたんだ」
「…」
「…その知り合いのあんな顔を見てると…放っておけなくなったんだ…」
「知り合い、ねえ…」
「その後、目の前で倒れたあいつを見たときも、気が気でならなかった…」
リビングから出るドアに顔を向けると、目を閉じた。
「これで満足か?さっさと行くぞ。元はと言えばお前にも責任が…」
「…ククク…」
「…何を笑ってるんだ?」
「いや何…普段自分のことを少しも話さないお前が、こうやって焦ってイライラして…自分の気持ちを話すなんてな…あのガキはよほどの大物のようだな」
ファジーはとんがり帽子を片手で押さえながら、笑いを押し殺していた。
「…いいぜ、俺ぁあのガキに興味が出てきた。少しの間その仲良しごっこに付き合ってやるよ」
ファジーは勢いよく立ち上がると、コートのポケットに手を突っ込みながら歩いてきた。
ディメとファジーが向かい合って立った。
「早くいこうぜ?大事な大事な愛しい”あ・な・た”がどこの馬の骨ともわからん奴に汚されちまうぜ?」
目玉だけで器用にニヤリと笑いながら、ファジーはディメのそばを通って、リビングから出て行った。
ディメはその様子を見ながら、ポツリと呟いた。
「勿論だ。愛しい人…“だった”んだからな」
深夜の静かな住宅街。
その少し先を行ったところには商店街。
そのさらに先にはビルの並ぶ街並みが広がっていた。
そのビルの内の一つの頂上に、人影があった。
その数二人。
しかし、その影の後ろから突如として扉が現れた。
その扉が開かれると、中からゾロゾロと数人の影が出てきた。
それらは前に立つ男の後ろに立った。
前に立つ男が右手を上げる。
…静寂が流れたのち、その手が下げられると、影達は一斉にビルを飛び降りた。
その影を周りのビルの出す光が照らすと、そこには異形の者達の姿があった。
そのすぐ後に、もう一人の男…頭の尖ったシルエットが口笛を吹くと、どこからともなく現れた棒状の何かの上に飛び乗って、そのままビルを垂直に飛んで降りて行った。
後に残された男が一人。
四角いものを頭に乗せたシルエットは暗闇に光る大きな目玉をニヤつかせると、前に向かって歩いた。
その足がビルの頂上から離れてると、立ったままの姿勢で垂直に落ちて行った。
そのすぐそばを看板が通り過ぎて行った。
いや、男が看板のそばを通り過ぎて行った。
その看板にはそれぞれの階になんの店があるのかを表示していた。
その6階部分の店の名前は、『スナック菊牡丹』だった。
落ちる男達の視線の先には舗装された歩道があった。
しかしそこにまたしてもドアが現れた。
それは巨大な冷蔵庫の如く、男達を飲み込まんとドアを開けた。
吸い込まれるようにして飛び込んだその穴の先には…
闇が広がっていた。
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