第72話 30代・立ち退き
結局、立ち退き請求は父が負けた。
控訴すると言っていたので、私はてっきりそうしたものかと思っていたが、なぜか控訴せず、そのまま判決が確定してしまった。
そして、その頃、私は、手首の痛みでまったく身動きが取れなかったわけだ。
立ち退けと言われても、引越しの準備もままならない有様だった。
何しろ痛みで箸も満足に持てなかったのだ。
今のようなお任せパックを使うにしろ、指図すら満足にできなかっただろう。
父の方も、年齢的なこともあるけれど、私の高校時代に脳出血で倒れた後遺症で半身が不自由だったので、父に引っ越しの支度と言うのも少々無理があり、立ち退きの通告が来たけれど、弁護士に、とにかく私の手が治るまで延期手続きしてもらったと父が言った。
私は、もう、その家を失う覚悟ができていた。
いくら弁護士が整理していると言っても、あれほどたくさんあっては、どうなるものかわからない。
だいたい、やっているやっているという割に、少しも請求の手紙が減っている気配がなかった。
両手首の痛みも少しずつマシになり、何とか年末までには完治するだろうから、妹を新年に呼んで最後の別れを惜しみ、引っ越ししようと思っていた。
12月初めの、あの朝は、私はとても穏やかな気持ちで、もともと妹の部屋があった部屋に横たわり、庭の紅葉を眺めていた。
この家で、つらいことがたくさんあった。
子供の頃から、川口はどうしても好きになれなかった。
近くの工場の黒い煙。
この町では、ずっと体調が悪かった。
この家で、母も見送った。
その記憶があまりにもつらくて、家にいればそれをばかり思い出し、早く引っ越したくなっていた。
裁判に負けたことは残念だけれども、だから割とあっさりとあきらめがついたのかもしれない。

けれど、手首の痛みの間、毎日、応接間のソファーに座り、吹き抜けを眺め、庭を眺め、心地よく過ごして、改めて思った。
ああ、ここは本当にいい家だったなぁ。
母が愛したのも無理は無い。
巡り合わせが悪くて、つらい思い出が多かったけれど、家自体は気持ちの良い家だった。
もう別れることになったけれど、最後にたくさん写真を撮っていこう。

その時、騒がしく大勢の人間が入ってくる気配がして、父が何か言い争っている様子になり、私は2階から下を覗いてみた。
裁判所の強制執行だった。
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