84番の扉

星向 純

1.夜の行列

 一人の若者がいた。

 健康で、はずむような体を持っていた。自分がいつか死ぬなどということは、考えもしなかった。


 ある夜、若者は街を歩いていた。となりには恋人がいた。真珠しんじゅの粒のように小さく、可愛らしく、つややかに輝いている女の子だった。

 夜の街には、人気ひとけがなかった。よいことだった。すれ違う人たちから『死の吐息といき』を吐きかけられる心配がなかったから。


 若者と恋人は、肩を並べて歩きながら、おしゃべりをし合った。恋人は、不安そうな顔をしながら、言った。

 「ねえ、世界はこれで終わりになるのかな?」

 若者は、力強く答えた。

 「ならないよ」

 それを聞いて、恋人は笑顔になった。

 「安心した!」

 若者はうれしくなり、つい調子に乗った。

 「総体そうたいとしての人類は、ウィルスとの戦いに、今まで全勝してるよ。でも、個体としての人間は、ウィルスに負けて死ぬことがある。それが、困ったところで……」

 「もう!」

 恋人は、若者の言葉をさえぎった。

 「せっかく安心したのに、余分なこと付け足すんだから。悪いくせよ!」

 若者は、苦笑した。

 「ごめんごめん……そうだ、この騒ぎが終わったら、どこかへ旅行に行こうか」

 恋人は、たちまち笑顔になった。

 「いいね! そうしよう! わたし、暖かい南の国がいいな……」

 「涼しい北の国もいいよ? 空気がおいしいはずだから……」


 若者と恋人は、手を握り合い、夢を語り合った。楽しい気分になるにつれ、ふたりの足取りは弾んだ。

 お互いに『死の吐息』を吐きかけ合う心配など、していなかった。そんなことを気にしていては、楽しいおしゃべりができないから。病気にかかってしまうのなら、ふたりで一緒にかかればよかった。なんの問題もなかった。


 夜道の前方が、明るくなってきた。恋人が指さした。

 「ねえ、あれは何?」

 若者は、恋人が指さすほうを見た。それは、人の行列だった。

 ゆるやかな坂道が、まっすぐに伸びていた。街灯が規則正しく並んで、広い歩道を照らしている。その下を、大勢の人々が、行列を作り、ゆっくりと、坂道をのぼり続けているのだった。

 若い人も、年取った人もいた。男も女も、子供もいた。仕事帰りの人も、普段着の人もいた。荷物を背負った人も、手ぶらの人もいた。行列は、静かに坂をのぼり続けていた。


 恋人は若者を見つめた。

 「ねえ、あの人たち、どこへ行こうとしてるの?」

 恋人の目は、大きく見開かれ、きらきらと輝いていた。不思議な何かに、きつけられたような目をしていた。

 若者は眉をしかめた。

 「どこだろう? 分からない」

 恋人は、若者の手を引っ張った。

 「ねえ、ついて行ってみようよ? そうしたら、分かるよ?」

 夜道をのぼる行列は、いつまでも続いていて、見ていると吸い込まれそうな気がした。

 「行列の先に、何かがあるんだ……そうだね、行って、見てみよう」

 「うん!」

 ふたりは行列に近寄っていった。途中で気が付いて、ポケットからマスクを取り出し、顔に着けた。

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