序章 春雷の中で
外はしとしとと冷たい雨がふっている。
フレデリカはおちつかない様子で、
(あ……いま遠くの空が光ったわ)
音は聞こえてこないが、確かに
(お父さま、まだ
現在、父親のルーベンはオルブライト
例年通りだったらフレデリカのいる王宮の
ちらりと部屋の中を見ると、白を基調とした
(……きらびやかなはずなのに、冷たく見えるのは気のせい?)
父親の付きそいでイフレイン王国の
フレデリカは少しだけうつむき、
オルブライト領は古くから農業で栄えてきたが、ここ数年で取れ高が悪くなり、財政難によって借金が増えつつあった。
少しでも領民の税が減るように王都に建てられた
領地が栄えていたときの印象はとっくに消え去っていた。
フレデリカは冷えた指先を温めるように息を
(きっとお父さまは陛下と今後の対策を練っているだけ。そうよね)
三月の雷は
フレデリカが小さく返事をすると、重々しい扉から
ほっとしたように
「お父さま……その、どうだったの?」
「うん、それがな。陛下から一年で財政を回復させなければ爵位
あっさりと告げられた言葉に、フレデリカは声を
フレデリカはよろけるように一歩二歩と後退し、
(……いつか。いつかは、爵位剥奪って言われるかもしれないと思っていたけれど)
想像以上にあっけなくやってきた。
フレデリカは
「え、えっと……たった一年で、財政を回復させることなんてできるの?」
フレデリカに財政のことなんてわからない。内気で引っ込み思案な性格もあって、家族に言われるままに畑を耕してきたから。
「これからちょうど
「……わたしも、それでいいと思うわ」
フレデリカは賛成するしかなかった。ほかに思いつかないのだ。
「
定例会議のあとは夜会と決まっていた。フレデリカはルーベンに背中を押されて、
扉を閉める前、ルーベンはもう一度「大丈夫だから」と笑った。
そんな保証はどこにもないのに。まるで自分自身に暗示をかけているようで、フレデリカも運命を受け入れるためにぎこちなくほほえんだ。
夜会がはじまるころには
フレデリカはきらびやかな場所が苦手であり、家が貧しいという負い目もあってか、こういった社交場ではいつも
今日はそうはいかなかった。必死に表情筋を持ちあげて
(あ、あんまりこっちを見ないで)
爵位剥奪の件は
フレデリカは
もしもこの場で泣いてしまったら、底なし
それなのに。
「いい心がけですね、ルーベン・オルブライト男爵、フレデリカ嬢」
声をかけられて
フレデリカがルーベンと共にうやうやしく礼をすると、彼は笑みを
「協力者は見つかりそうですか?」
「それは……」
ルーベンが言葉を詰まらすと、リオハルトは「まあ、あと一年ありますから」と言う。しかし青い瞳の奥は笑っていなかった。
「正直なところ、俺は一年という期限を設ける必要はないと思っています。しかし、陛下が長年あの土地を治めてきたことに敬意を払わなければならないとおっしゃいましたから」
ルーベンは返す言葉がないようでぐっと
「ああもちろん、
リオハルトは瞳を細め、フレデリカのドレスを見つめる。流行のドレスを仕立てる
(ああ。わたしは、いろんな人から
リオハルトの一言によって周囲の視線が敵意へと変わる。
うつむいたフレデリカに追い打ちをかけるようにリオハルトは
「これ以上俺たちをがっかりさせないでくれ」
口調ががらりと変わった。
フレデリカは耐えられなくなり「失礼します」とだけ言って、
背後から聞こえるざわめきの中から「王子を目の前にしてなんて態度だ」や「みすぼらしい令嬢め」という声が
気づいたら、フレデリカは大広間から
なんとなくまだ控室に戻りたくなくて、人目がないことを
(……ああどうしよう)
いまになってようやく
フレデリカの視界が
(泣いてはだめ。一番大変なのは領民たちよ)
ふとみんなの顔が思い浮かび、胸が苦しくなる。借金を返すために彼らにさらなる負担をかけるわけにはいかない。フレデリカたちがすべてを背負っていかなければならない。それが領地を治める貴族の役目だ。
本当はあきらめたくなかった。イフレイン王国の
(これからなにをすればいいの?)
作物の取れ高が悪くなった原因すらもフレデリカにはわからない。
唇を
「ここまで来れば誰もいないわ」
「ねえエリシオさま、ゆっくりお話ししましょう? ぜひあなたをわたくしたちに
「もちろん。お
近づいてきたのは一人の男性と、二人の女性の三人組だった。
(エリシオさま……? どこかで聞いたことがあるような、ないような)
どうやら三人組は大広間を
フレデリカがいることに気づかずに、彼らは会話に花を
「今日のドレスもよく似合っているよ。
「そうよ。エリシオさまって本当にセンスがいいのね!」
「
「もちろん。ちょうど新作の布地が
エリシオという男は会話を楽しみながら商談をしている。今日の夜会にいるということは貴族に違いないが、彼は商人でもあるのか。
そんなことを考えていると、話題は思ってもいなかった方向に飛び火する。
「あの子もエリシオさまにドレスのデザインから選んでもらえばよかったのに」
「そうね。
「確かにデザインは前のものだけど、あれはとても
フレデリカはハッとして顔をあげる。カーテンに隠れているため彼の姿は見えなかったが、少しだけ顔を見てみたいと思った。
「そうですか? 流行ごとに仕立てたほうがいいと思いますけど」
「わたくしもそう思いますわ! だって
耳に痛い話だった。フレデリカはエリシオなら
「君たちの考えも一理ある。おれとしては気前のいいご令嬢は好きだよ」
そんな声が聞こえてきて、結局はお金なのかとフレデリカは
フレデリカはふとカーテンの
夜空は厚い雲に覆われ、黒々としている。さらに雨によって視界が悪い。まるでこれからの先行きを示しているようだった。
(……わたしの楽しみや、幸せはどこにあるのかしら)
なにも見えないわ、と思ったとき。
ピカッ──ゴロロロロロロッ!!
あまりの
(光、車のライト。ああ、そうなの。事故に
フレデリカは先ほどの白い
(私は、そうだわ。ブライダルプランナーをしていて。でもいまのわたしは十代の令嬢で? こんなことってあるの……)
体が震えた。本来の自分が
(大丈夫。わたしが一人の人間ということに変わりはないわ)
フレデリカは心をおちつけようと深呼吸をくり返し、少しずつ指先や足先に熱を取り
ゆっくりと横を向くと、エリシオが雷の様子を確認するために窓をのぞいていたところだった。外からの光で彼の顔が見えにくい。
やがて彼はフレデリカのことに気づいたのか「あっ」と口を開けた。
「……君は」
「すごい雷でしたわね」
フレデリカは青白い顔を
「いろいろと好き勝手に言われてしまいましたけど、こんなところに隠れていたわたしも悪いもの。今日のことは
「あ、ああ」
「ではごきげんよう。エリシオさま」
いま一度雷が鳴る。先ほどまでは不安をかきたてる音だったが、フレデリカの心は不思議とおだやかなものに変わった。
(日本だったら、いい意味だったもの)
この時期の雷は冬の終わりを告げ──やがて春が来るのだ。
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