序章 春雷の中で

 外はしとしとと冷たい雨がふっている。

 フレデリカはおちつかない様子で、ごうしやふちいろどられた窓から外をながめていた。

(あ……いま遠くの空が光ったわ)

 音は聞こえてこないが、確かにかみなりが落ちた。それが余計に不安をかきたてる。

(お父さま、まだもどらないのかしら)

 現在、父親のルーベンはオルブライトだんしやく家の領主として、年二回行われる領主の定例会議で国王陛下と王子たちにえつけんしている。

 例年通りだったらフレデリカのいる王宮のひかえしつに戻ってくるころだが、その気配がない。

 ちらりと部屋の中を見ると、白を基調としたごうな家具やびんが置いてあり、ぼくな自分には似合わないしろものばかりだ。

(……きらびやかなはずなのに、冷たく見えるのは気のせい?)

 父親の付きそいでイフレイン王国のまつたんの領地からはるばるやって来たが、さびしさにおそわれていた。

 フレデリカは少しだけうつむき、しやくどういろの長いまえがみによってさえぎられた視界から小さな手を眺める。指先がひび割れている原因は畑仕事だった。

 オルブライト領は古くから農業で栄えてきたが、ここ数年で取れ高が悪くなり、財政難によって借金が増えつつあった。

 少しでも領民の税が減るように王都に建てられたしきは引きはらい、フレデリカ自身もれいじようでありながら作物を育てているが。どんなにいい野菜や果物が採れたとしても、王都へ運ぶころにはせんが落ちてしまい、周辺の領地にも立派な畑があるため商売が成り立たず……。

 領地が栄えていたときの印象はとっくに消え去っていた。

 フレデリカは冷えた指先を温めるように息をく。

(きっとお父さまは陛下と今後の対策を練っているだけ。そうよね)

 三月の雷はきつしようちようだ。そんなものをたまたま見てしまったから不安になっているだけだ。そう自分に言い聞かせていると、とびらからノックの音がひびく。

 フレデリカが小さく返事をすると、重々しい扉からたいのがっしりとした男性が現れる。ようやくルーベンが戻ってきたのだ。

 ほっとしたようにけよって、フレデリカは父親の顔を見あげる。

「お父さま……その、どうだったの?」

「うん、それがな。陛下から一年で財政を回復させなければ爵位はくだつと言われてしまったよ」

 あっさりと告げられた言葉に、フレデリカは声をまらせた。ルーベンの表情は日焼けしていたせいでわかりづらかったが、かなり青ざめていた。

 フレデリカはよろけるように一歩二歩と後退し、むなもとを押さえる。

(……いつか。いつかは、爵位剥奪って言われるかもしれないと思っていたけれど)

 想像以上にあっけなくやってきた。

 フレデリカはかわいたこうこうからやっとの思いで声をしぼり出す。

「え、えっと……たった一年で、財政を回復させることなんてできるの?」

 フレデリカに財政のことなんてわからない。内気で引っ込み思案な性格もあって、家族に言われるままに畑を耕してきたから。

「これからちょうどきの季節だからな。もう少し畑を増やしてみようと思っている。フレデリカはどう思う?」

「……わたしも、それでいいと思うわ」

 フレデリカは賛成するしかなかった。ほかに思いつかないのだ。

 だまりこんだむすめの頭を、ルーベンはやさしくでた。

だいじよう。お前は心配しなくていい。今回の件は陛下があたえてくださった試練なんだ。さあドレスの準備をしなさい。そろそろ夜会がはじまるぞ」

 定例会議のあとは夜会と決まっていた。フレデリカはルーベンに背中を押されて、となりの控室に向かう。じよがいないため全部自分でやるしかない。すぐさま準備に取りかかる。

 扉を閉める前、ルーベンはもう一度「大丈夫だから」と笑った。

 そんな保証はどこにもないのに。まるで自分自身に暗示をかけているようで、フレデリカも運命を受け入れるためにぎこちなくほほえんだ。



 夜会がはじまるころにはあまあしが強まった。

 フレデリカはきらびやかな場所が苦手であり、家が貧しいという負い目もあってか、こういった社交場ではいつもかべ側で気配をひそめていたが。

 今日はそうはいかなかった。必死に表情筋を持ちあげてみをつくる。

(あ、あんまりこっちを見ないで)

 爵位剥奪の件はまたたく間に広まってしまい、夜会ではだれもがフレデリカとルーベンにこうあわれみの視線を向けてきた。

 フレデリカは心地ごこちが悪くていたたまれなくなる。だがルーベンが必死に財政を回復させるための手立てをつくろうと、いろんな人に声をかけているのだ。せめて笑顔でいようとこころけるが、協力してくれる人は見つからず、いには「よくもまあ笑っていられますね」と言われてしまった。

 もしもこの場で泣いてしまったら、底なしぬまに引きこまれるように足元からくずれてしまう。ただでさえみじめなのに、これ以上後ろ指をさされて悲しい思いをしたくなかった。こぼれそうになるなみだを必死にこらえる。

 それなのに。

「いい心がけですね、ルーベン・オルブライト男爵、フレデリカ嬢」

 声をかけられてり向くと、第二王子のリオハルトが立っていた。さらさらなぎんぱつに、氷のようにするどくてすずやかなひとみとしは今年で二十二歳、フレデリカよりも四つ年上だった。第一王子とはちがっていまこんやく者がいないため、令嬢たちから人気を集めているようだが。どこか近寄りがたさを感じた。

 フレデリカがルーベンと共にうやうやしく礼をすると、彼は笑みをかべる。

「協力者は見つかりそうですか?」

「それは……」

 ルーベンが言葉を詰まらすと、リオハルトは「まあ、あと一年ありますから」と言う。しかし青い瞳の奥は笑っていなかった。

「正直なところ、俺は一年という期限を設ける必要はないと思っています。しかし、陛下が長年あの土地を治めてきたことに敬意を払わなければならないとおっしゃいましたから」

 ルーベンは返す言葉がないようでぐっとこぶしにぎってこらえていた。リオハルトは口角をあげると、フレデリカたちだけに聞こえるようにささやく。

「ああもちろん、えられなくなったらいつでも教えてください。俺がすぐにでも引導をわたしてあげましょう。そうすれば貴女あなたはじをかかずにすむ」

 リオハルトは瞳を細め、フレデリカのドレスを見つめる。流行のドレスを仕立てるゆうがなく、新品に見えるように手入れはしていたが。

(ああ。わたしは、いろんな人から鹿にされていたのね……)

 リオハルトの一言によって周囲の視線が敵意へと変わる。こわくてたまらなくなった。

 うつむいたフレデリカに追い打ちをかけるようにリオハルトはくちびるゆがめる。

「これ以上俺たちをがっかりさせないでくれ」

 口調ががらりと変わった。そうめいな王子と聞いたことがあるが、彼は誰よりもれいこくな人なのかもしれない。

 フレデリカは耐えられなくなり「失礼します」とだけ言って、ひとみをかき分けて大広間から飛び出した。

 背後から聞こえるざわめきの中から「王子を目の前にしてなんて態度だ」や「みすぼらしい令嬢め」という声がりんかくを現す。もしかしたらフレデリカ自身が生み出したげんちようかもしれないが、切羽詰まっていて判断がつかない。

 気づいたら、フレデリカは大広間からはなれた建物のろうに立っていた。無意識のうちにオルブライト家の控室の近くまで戻っていたのだ。

 なんとなくまだ控室に戻りたくなくて、人目がないことをかくにんすると窓側の壁に寄りかかる。ざあざあという雨音を感じながら小さくため息をついた。

(……ああどうしよう)

 いまになってようやくしやく剥奪という実感がいてきた。

 フレデリカの視界がじよじようるんでいく。

(泣いてはだめ。一番大変なのは領民たちよ)

 ふとみんなの顔が思い浮かび、胸が苦しくなる。借金を返すために彼らにさらなる負担をかけるわけにはいかない。フレデリカたちがすべてを背負っていかなければならない。それが領地を治める貴族の役目だ。

 本当はあきらめたくなかった。イフレイン王国のまつたんの土地だろうと、畑仕事の毎日を送ろうと、フレデリカは領地を愛していた。

(これからなにをすればいいの?)

 作物の取れ高が悪くなった原因すらもフレデリカにはわからない。せきいのったところで、神さまはそう簡単にほほえんではくれない。

 唇をみしめたとき、背後からかんだかい声が聞こえてきた。フレデリカはぎょっとしながら、大きな窓をおおうカーテンの一部に身をかくす。

「ここまで来れば誰もいないわ」

「ねえエリシオさま、ゆっくりお話ししましょう? ぜひあなたをわたくしたちにどくせんさせて」

「もちろん。おじようさまたちのおおせのままに」

 近づいてきたのは一人の男性と、二人の女性の三人組だった。

(エリシオさま……? どこかで聞いたことがあるような、ないような)

 どうやら三人組は大広間をけ出してきたらしい。

 フレデリカがいることに気づかずに、彼らは会話に花をかせる。聞き耳を立てるつもりはまったくないが、なみだをこらえている顔を見られたくないと息をひそめる。

「今日のドレスもよく似合っているよ。うれしいな。それ、おれがおすすめしたこうたく感のある布地を使っているんだね」

「そうよ。エリシオさまって本当にセンスがいいのね!」

うらやましい! ねえ、エリシオさま。わたくしにも選んでくださいな」

「もちろん。ちょうど新作の布地がにゆうしたから今度見においで」

 エリシオという男は会話を楽しみながら商談をしている。今日の夜会にいるということは貴族に違いないが、彼は商人でもあるのか。

 そんなことを考えていると、話題は思ってもいなかった方向に飛び火する。

「あの子もエリシオさまにドレスのデザインから選んでもらえばよかったのに」

「そうね。つややかさがなかったもの。いつの流行? と首をかしげてしまったわ」

 じやに笑う令嬢たちの声に、フレデリカはぎゅっと唇を引き結ぶ。かたふるわせながらこらえていると、エリシオが口を開く。

「確かにデザインは前のものだけど、あれはとてもやわらかい生地でね。手入れをするのは大変なんだ。彼女のドレスはまた流行がめぐってきたときに案外かつやくするかもしれないよ」

 フレデリカはハッとして顔をあげる。カーテンに隠れているため彼の姿は見えなかったが、少しだけ顔を見てみたいと思った。

「そうですか? 流行ごとに仕立てたほうがいいと思いますけど」

「わたくしもそう思いますわ! だってれいなドレスも宝石もなくなってしまったら、令嬢としての楽しみもなくなってしまうもの!」

 耳に痛い話だった。フレデリカはエリシオならいつしゆうしてくれると期待するが。

「君たちの考えも一理ある。おれとしては気前のいいご令嬢は好きだよ」

 そんな声が聞こえてきて、結局はお金なのかとフレデリカはらくたんした。いつしゆんでも彼の言葉に喜んだ自分が馬鹿みたいだった。

 フレデリカはふとカーテンのすきから窓を見つめる。

 夜空は厚い雲に覆われ、黒々としている。さらに雨によって視界が悪い。まるでこれからの先行きを示しているようだった。

(……わたしの楽しみや、幸せはどこにあるのかしら)

 なにも見えないわ、と思ったとき。


 ピカッ──ゴロロロロロロッ!!


 またたく間に外が白くひらめいて、王宮の近くにかみなりが落ちた。

 あまりのごうおんにフレデリカはあつにとられた。まるで自分だけが世界に取り残された感覚に、頭の中にとある映像が浮かぶ。

(光、車のライト。ああ、そうなの。事故にったのね)

 フレデリカは先ほどの白いせんこうによって、おぼろげに前世を思い出した。

は、そうだわ。ブライダルプランナーをしていて。でもいまのわたしは十代の令嬢で? こんなことってあるの……)

 体が震えた。本来の自分がけてなくなりそうな感覚にめまいを覚えたが、寸前でみとどまる。二人分のおくがあろうと、うつわはひとつ。

。わたしが一人の人間ということに変わりはないわ)

 フレデリカは心をおちつけようと深呼吸をくり返し、少しずつ指先や足先に熱を取りもどしていく。二日いのような心地ここちの悪さが、逆になつかしくてみをたたえたとき。

 ゆっくりと横を向くと、エリシオが雷の様子を確認するために窓をのぞいていたところだった。外からの光で彼の顔が見えにくい。

 やがて彼はフレデリカのことに気づいたのか「あっ」と口を開けた。

「……君は」

「すごい雷でしたわね」

 フレデリカは青白い顔をすようにまえがみをかきあげ、悪戯いたずらっぽく笑ってみる。

「いろいろと好き勝手に言われてしまいましたけど、こんなところに隠れていたわたしも悪いもの。今日のことはたがいにこの雨にめんじて水に流しませんか?」

「あ、ああ」

「ではごきげんよう。エリシオさま」

 たんたんと告げてからフレデリカはくつかかとを鳴らして廊下を歩く。ちゆうでエリシオとだんしようしていた令嬢たちとすれちがう。しやくをするとするどい視線を向けられたが、堂々と胸を張った。

 いま一度雷が鳴る。先ほどまでは不安をかきたてる音だったが、フレデリカの心は不思議とおだやかなものに変わった。

(日本だったら、いい意味だったもの)

 この時期の雷は冬の終わりを告げ──やがて春が来るのだ。

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