至福の時間

文月ヒロ

至福の時間

 とある金曜の夜。


「はぁ~、疲れたぁ~」

 香山美花かやまみかは、自宅であるマンションへと帰宅するやいなや、ベッドへダイブし枕に顔を埋める。

 頭が痛いし、もう動くのも怠くて辛い。

 きっと、この一週間の疲れがどっと現れたからだけではないだろう。

「あんっのクソ上司ぃっ!私酒飲めないっれ言ってるのにゅい、ジョッキ二杯も飲ましぇやがってぇ~。あ~頭痛い……」

 月に一度行われる会社の飲み会が彼女は嫌いだった。

 人付き合いが嫌いなのではない、上司が嫌いなのだ。

 何故に上司のご機嫌取りのために、残業に残業を重ねた体に鞭打って、セクハラを受けながら酒に弱い自分が酒を飲まねばならんのじゃ!

 本音を言えばそれなのだが、大人しく従っていなければ上司ハゲオヤジの陰湿な苛めが待っている。

 入社二年目の美花はそんな同僚や先輩を多く見てきた。

 仕事にケチつけられて、無理な仕事も押し付けられる。

 上司ハゲオヤジの口癖は何だったか?

 思い出した、『これだから最近の若いヤツは…仕事もできんし、飲み会にも顔を出さん、最悪だな。ははははっ!』だ。

「うっせぇんらよ!こっちだって真剣にやってんらってぇのっ!仕事も飲み会も!つーか、飲み会の日にプライベートれ予定が入ってる時くらいあんれしょうら!仕事のキャパも越えてんらよ!」

 そもそも、入社二年目のひよっ子に明らか仕事を出し過ぎなのだ。

 先輩だって量が多いと愚痴を言っているくらいだから間違いはない。

 無能なのはどっちだと言いたい。

 普段言えない愚痴だが、一人である自宅なら問題ない。

 もっとも、隣人への配慮を忘れてはいけないのが少し窮屈ではあるが。

「う~、み、水……。……取りに行くろ面倒くしゃい……」

 体が水を欲しているが、既に酔いが回って気持ちが悪いし呂律も上手く回らない。

 ここは私生活がずぼらな自分らしく、いつものように水と風呂は諦めて寝てしまうべきだろう。

 幸い、明日は土曜なのだし。


「はい美花、水」

「ぅあ?あぁ、ありがろう……って!何れいるのっ!?」

 差し出されたコップを手に取ろうとして、美花は驚きの声を上げた。

 もちろん、自宅に自分以外がいたことも起因している。

 が、一番の理由は、隣でしゃがみながら優しく自分を見つめている人間に激しく見覚えがあったからだ。

「さ、さとし!え、えっ!?な、何で!?」

「何でって…彼氏だから?」

「ちがーーうっ!!いや、違くないけど違う!私たち同棲なんてしてないでしょ!」

 美花の隣にいたのは、彼氏の平野智ひらのさとしだった。

 あまりの出来事でベッドから飛び起きた彼女の酔いは覚めていた。

「しー、お隣さんに怒られるよ?」

「あ…うん……。……その、どうしてここに?」

「忘れたの?「今日、誕生日だから祝って」って鍵渡してくれたの美花なのに」

「はわ!わ、忘れてたぁ……」

 急に決まった飲み会のせいですっかり忘れてしまっていた。

 約束を忘れていたことと、自分の誕生日さえ忘れていたことに美花は項垂れる。

 よしよし、と頭を撫でて慰めてくれる彼が優しくて堪らない。

 いっそうちの上司になってくれれば良いのに、と内心思う美花であった。


「あっ!」

「どうしたの?」

 急に距離を取られてしまったことに智はキョトンとするが、美花はそれどころではなかった。

 今の自分について整理してみると、外出したままの服装、加えてその服は飲み屋の料理の臭いを纏っている。

 あと、少し酒臭い。

 そんな状態で彼に近づけば、彼の彼女としての好感度が駄々下がり間違いなしだ。

「えっと、その…お風呂入ってくるね……」

 相手に悟られる前に、美花はすぐさま戦略的撤退に移行した。

 が、

「ああ、臭い?全然問題ない、大丈夫だよ。そんなことより、ケーキ食べよ?」

「えっ…」

「どうしたの?ほら早く。」

「…は、はい……失礼します………」

 羞恥に顔を林檎色に染めた美花は、出来るだけ智と距離を取るため、彼が座っている反対方向へ座った。

 しかし、隣に座りなよ、と彼氏の奇襲に美花は逆らえず隣に座ることになってしまった。

「うぅ…死ねるぅ……」

「だから臭いなんて気にしてないって」

 とてもありがたい言葉をかけてくれる智だが、違う。

 たとえ相手が問題ないと言っていてもこちらは問題ありありなのだ。

 普通、好意を寄せている相手が近くにいれば、相手がどう思おうが自身の臭いや服装などに気を使わなければ、と思うものである。

 美花は、この時だけはそれを察して欲しかった。

「ん?」

「…何でもない……」

「そか、じゃあ始めるね?美花、誕生日おめでとう」

「…ありがとう」

 諦めて誕生日パーティーを始めることにした美花。

 こうなったら自棄やけくそだ。

 ケーキ二個をペロりと平らげ、三つ目へフォークを伸ばす。


 ふと横を見ると、智は左腕で頬杖をついて微笑みながら自分を見ていた。

「な、何よ」

「ん?可愛いなって」

「…………」

「顔赤いよ?大丈夫?」

「…うん大丈夫……」

 突然そんなことを本気で言われたのだから仕方がないではないか。

 そう思う美花であった。

 同時に、こうも思った。

 幸せだぁ。


 至福の時間とは、こういうのを指すのかもしれない。

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