日々(にちにち)

香井 八輔

第1話

 重力にまかせて首が右に傾く。角ばった光の塊が朧げな視界の中に浮かび、断続して頭が上へ下へと揺れる。浅黒い両腕で支えられている私の腰のあたりから時折振動が伝わり、口元に溜まった涎が端からこぼれそうになる。いや、もしかしたらすでに垂れていたかもしれない。


 今思い起こせる一番古い記憶だ。多分、三歳の頃。そのとき私の顎を預けていた肩は、恐らく父のもの。当時の私のすきっ歯のように、隙間が目立ってきた頭皮から酸っぱいにおい漂っていて、それが今でも鼻の奥に佇んでいる。深淵の果てで転がっているような取るに足らない記憶をこうも容易に想起させられるから、嗅覚って本当に不思議。そして今私のいる世界が終焉への一途を辿っていることも、この上なく不思議だ。美辞麗句を連ねるのなら不易流行。身も蓋もない言い方をすれば諸行無常。受験に追われ、今を時めいていない女子高生の私ができる精一杯の表現。節操なんてないし、海面上昇率や海面温度の異常値なんて今の知識じゃ到底解けない。それが世界の終わりとどう相関性があるのかなんてさらにわからない。そもそも私、文系だし。


 とりあえず今は石橋の上から見下ろせる、海へと続くこの川を眺められればいい。遠くの水平線に沈む西日が生み出す、曖昧な線で揺らめく水面の光に目を奪われていればいい。世界がなくなるより先に、私の方が早く消えてしまうのだから。だけど、隣にいる弟と比べたらどうだろう。橋の欄干で腰を曲げて頬杖ついている、背筋をぴんと伸ばしてしまえば私を俯瞰するくらいの背の高さになった弟。どちらが先にいなくなるんだろう。そんなことよりさっきからその姿勢できつくない?


 そろそろ夕日が沈みそうだ。太陽自体が動きをもって沈んでいるようにみえるけど、実際は地球の自転によるものなんだよね。これ以上深掘りしていくと地学の知識がいる。専攻していないからわからない。理系脳の弟に訊けばわかるかもしれないけど、馬鹿にされるかもしれないから黙っておこう。


 いずれにせよ私は、この平々凡々な日々を死ぬまで過ごすのだろう。隣の弟ものらりくらりとそんなことを思っているはずだ。お姉ちゃんは、わかってるぞ。


(姉の日々)

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