第27話 寝室の皇帝

 日が沈み、闇に支配されても帝都ヴァッサルガルトの喧騒は鳴りやまない。

 アヴァルケン半島の動乱以外に目立って大きな戦乱がないこの数十年で農業技術は著しく進歩し、大陸中で交易が盛んにおこなわれるようになり、商人たちが大きな力をつけ、帝国の中心地である帝都に火を灯し続けている。

 しかし、それは皇帝や貴族といった旧来の支配体制に寄生する者たちにとっては凋落を意味するものであった。

 

 にぎやかな夜の帝都とは打って変わって帝都中央部に位置する石造りの巨大な城カイザーブルクは不気味な静けさに支配されている。

 翡翠色の法衣を纏った気品あふれる初老の男が、皇帝の寝室の扉をたたく。

  

 彼の名はアルベリッヒ公爵。

 遠く領地である西のヴィントヴァルトから離れ、この帝都で帝国の政治を支えるために帝国宰相として皇帝のそばに仕えている。


 彼は不運な人であった。帝国宰相は四公爵家が交代で就任するのが帝国の習慣である。何の因果かちょうどアルベリッヒ公爵が宰相になったとき、先帝が崩御した。

 

 先帝は後継者を指名せずに急死したため、次の皇帝をだれにするかが、問題となることは明白だった。

 先帝の死に乗じて貴族たちは帝国内での影響力を拡大させるために大きく三つの勢力に分かれた。

 病弱だが皇太子であったヘルマンを皇帝に押す派閥。

 眉目秀麗で文武に長けるが、第二皇子であったルークを押す派閥。

 そしてどちらにも属さない派閥。

 

 ヘルマン派はヘルマンの妃の父で東を収めるマールシュトローム公爵が、ルーク派はルークの妃の父で南を収めるベルクヴェルグ公爵が中心だった。

 

 当初はヘルマンの評判が悪く、権勢を誇っていたベルクヴェルグ公爵を擁するルークが優勢であったが、ルイーゼがフレイヘルム家の当主となってからは風向きが変わった。

 

 ルイーゼは親交があるアルベリッヒ公爵に皇太子ヘルマンを推すように働きかけた。

 野心というものはなく平和を愛するアルベリッヒ公爵はどちらにもつかず、宰相として帝国の安定を第一に考え、動静を見守っていたが、これを機にヘルマン側についた。

 

 三つの公爵家がヘルマン側に回ったことで形勢は逆転、ヘルマンが新しき皇帝となり、ベルクヴェルグ公爵は中央の政治から遠のいた。


 新たな皇帝ヘルマンの擁立は成功をおさめ、アルベリッヒ公爵も重圧から解放されると歓喜したが、むしろ状況は悪化した。


「陛下、陛下。いらっしゃるのでしょう」

  

 アルベリッヒ公爵が何度、扉をノックしても返事がない。

 もう十日間、皇帝ヘルマンは寝室にこもりっきりで政務を放棄している。

 皇帝の寝室だというのに一部の従者以外は近づけさせないために護衛もおらず閑散としている。

 しびれを切らしたアルベリッヒ公爵は許可を得ずに扉を開ける。

 

「陛下。会議には出席いただけないと困ります。陛下のご裁可がなければ事が運びませぬ」


 ベッドの天蓋の奥にいる皇帝にアルベリッヒ公爵は懇願する。

 最初はしきたり通りに皇太子であるヘルマンを皇帝にしたことを誇りに思っていたアルベリッヒ公爵だったが、皇帝となったヘルマンのもとで働くようになってからはそのことを後悔した。


「またアルベリッヒ公爵ですか。夫婦の寝室に無断で入るとは無礼ですよ」


 天蓋が開き、ベッドから裸同然の派手な薄紫色のネグリジェをはだけさせた女性が這い出てくる。

 あらわになった、艶めかしくも病的なまでに真っ白な肢体とはちきれんばかりの胸を隠すこともなく椅子に腰かける。

 

 毒々しい紫色の髪に、アメジストのような瞳。

 彼女こそが、マールシュトローム家の娘でヘルマンの妻、皇妃ラミリアだ。

 

 ベルクヴェルグ公爵が中央への影響力を失い、宰相であるアルベリッヒ公爵と宮廷貴族たちで帝国の政治を取り仕切っていたところに、ラミリアは影響力を行使するようになった。

 

 もともと、政治への関心が低かったヘルマンは皇妃ラミリアに妖艶さに骨抜きにされ、依存するようになり、寝室にこもるようになってしまった。

 

 突然、頭角を現したラミリアは実父であるマールシュトローム公爵のコントロールも受け付けず、皇帝を意のままに操り、帝国の政治に著しく支障をきたした。


 傾国の美女ラミリアは多くの貴族たちから恨みを買い、淫魔、寝室の皇帝などと呼ばれている。

 アルベリッヒ公爵もまたその存在を苦々しく思っているうちの一人だ。 

 

 ラミリアの傀儡と化した皇帝ヘルマンの政治への無関心に帝国は大きく傾いた。

 アルベリッヒ公爵は宮廷貴族と共になんとか切り盛りしていたが、帝国諸侯と皇帝、ぎりぎりのバランスの上で成り立っている帝国を維持するには皇帝の力が必要だ。

 だからこうして皇帝の寝室にまで足を運んだ。


「無礼は承知の上です。しかし、近年の著しい農業の発展と集荷雨量の大幅な増加により農作物の価格が下落し、物納に頼る諸侯や国庫の収入が大きく減っています。これを何とかせねば、艦隊も軍も維持できません」

「ベルクヴェルグ公あたりに金を出させればよいでしょう」


 ラミリアはテーブルの上のグラスに入ったザクロに似た赤い小さな果実の粒を素手でつかむとそのまま頬張り、指についた果汁を舌でなめとる。


「それでは一時しのぎにしかなりません。それにベルクヴェルグ公爵がそう簡単に自分の腹を切るとは思えません」

「ならフレイヘルム公は? あなたと親交のあるフレイヘルム公が出どころの、新しい麦や芋は今までと同じ育て方で何倍も収穫できるとか。そのせいで今、帝国は危機的状況にあるのでしょう。彼女には何か企みがあるのでは? 彼女を捕らえなさい。直接、話を聞きましょう」

「それはあまりにも……」


 アルベリッヒ公爵は黙りこくってしまう。

 ラミリアは何がしたいのかはよくわからないが、頭は切れる。そこが厄介なところだ。

 寝室にいながらどのように情報を集めているのかは知らないが、帝国や周辺諸国の情勢に精通している。

 

 ルイーゼが新品種の麦や芋栽培を広めているのはアルベリッヒ公爵も知るところ。

 経済に疎い帝国諸侯たちは最初は収穫量が増えると喜んでいた。

 

 しかし、市場に大量に麦やイモが出回ったことで価格破壊が起こり、物納で税を徴収する旧来の諸侯たちは二束三文の作物を大量に抱え込み、結果的には困窮してしまった。

 

 ルイーゼが善意で行ったことであるとアルベリッヒ公爵は信じたいが、ラミリアは帝国を混乱させるための策だと疑っている。

 フレイヘルム家と深いつながりがあるアルベリッヒ公爵としては立つ瀬がない。

 思えば、いつもそうだ。宰相であるアルベリッヒ公爵はいつも、各公爵家や帝国諸侯、皇帝の板挟みにあっている。特にルイーゼには振り回されっぱなしだ。これでは胃に空いた穴がふさがりそうにない。

 

「宰相。陛下は父君である先帝を亡くしたばかりで心身ともに傷ついておられます。今日のところはもう下がりなさい」

 

 アルベリッヒ公爵はにべもなくラミリアに部屋を追い出されてしまう。

 先帝の崩御からはや数年。傷心であるなどと体のいい言い訳だ。

 

「フレイヘルム公。いや、ルイーゼ。君は利口だが、今回ばかりは失敗かもしれんぞ」

 

 失意のアルベリッヒ公爵はそうつぶやくと自分の執務室へと戻っていった。

 

 ラミリアはベッドに戻ると恍惚の表情を浮かべ、艶やかで柔らかな膝を枕にヘルマンを子供のようにあやす。


「大丈夫ですよ。陛下。陛下をいじめる悪い奴らは私が追い払いました」


 ラミリアはヘルマンのぼさぼさの髪をやさしくなでる。

 ヘルマンは何も言わない。


「そうです。マールシュトロームもベルクヴェルグもフレイヘルムも第二皇子もみんな陛下の敵です。私たちの敵です」


 ヘルマンは何も言わない。


「ああ、愛おしい陛下。麗しき陛下。私の、私だけの陛下。必ず私が守ってあげますからね」


 ラミリアはヘルマンの乾いた唇に口づけすると再び寝かしつけた。


「もういいですよ。出てきなさい」


 部屋の隅から覆面で顔を隠した少女が姿を現す。

 高度な幻影魔法だ。

 

「はっ。御前に」

「計画は順調ですか」

「はっ。帝都地下カタコンベの調査は終わりました。今は教団の連中に儀式の準備をさせているところです。それと帝都にネズミが紛れ込んでいるようですが」

「あの古臭い僭称者連中ですか」

「いかがいたしましょう」

「捨ておきなさい。奴らの狙いはわかっています。ですが、アペイロン・コアさえ手に入ればこちらのもの。せいぜい派手に暴れてもらいましょう」

「御意のままに」

「いつも迷惑をかけますね」

「命を救っていただいたあの日から私はお嬢様の下僕ですから」

 

 ラミリアが覆面をめくる。

 少女の顔だが、半分は人間ではない。頭蓋骨がむき出しになっている。

 

「とても美しい顔ですよ」

「ありがたき幸せ。では」


 少女は再び覆面をかぶると霧のように消えてしまった。

 

「まあ、道具は道具なりに役に立ちなさい」

 

 ラミリアは冷たく笑う。

 

「ふふ、もうすぐ」

 

 ラミリアは一冊の本を手に取る。

 人の皮で装丁され、鎖で厳重に封印された古い本。

 表紙の真ん中には大きな生きた目玉が埋め込まれている。


「あと少しで私と陛下だけの理想郷の完成です」


 窓から差し込む月明かりに照らされ、怪しげな本の目玉がギョロリと動いた。

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