第16話 神器の呪い
ディオニュソスは呪いだ。
この斧を握っていると酔っぱらったような気分になって頭が働かなくなる。
自分が自分ではないような気分になってしまう。
呪いと言っても体が蝕まれているわけじゃない。
むしろ理性が吹き飛び、本当の自分がさらけ出されてしまうのかもしれない。
今まで感じたことのないような活力がみなぎり、血が滾る。心臓の鼓動は高鳴り、顔は焼けるように熱くなった。
闘技場でクルトを斬ってから、今までの記憶がない。目覚めたときにはベッドの上。
ただ私の忠義を捧げる愛すべき主人、この世で最も大切な人を斬った時の感触は鮮明に覚えている。
最高に気持ちがよかった。あれほどの快楽を得たことがない。
狭苦しい領地では満たされていなかった、満たされていないということにすら気づかなかった私の心も体も瞬時に、そして十分すぎるほどに潤った。
私の体の底に脈々と流れる闘争本能は神器という名のはけ口を得てあふれ出す。
だけど、激しい後悔と自己嫌悪に同時に襲われた。
神器のせいで暴走したとはいえ、一時の快楽を得るために私の大事な人を殺めるところだった。
クルトがご執心のルイーゼに助けてもらわなければ、私はクルトは死んでいた。私が殺していた。
闘技場で神器ディオニュソスと一体となった時、私が私じゃなかった。でも逆にこうも思える。
嬉々として周りの者すべてを、そしてクルトを欲望のままに壊そうとした私こそが本当の自分なのではないかと。
体はどうしようもなくクルトを欲している。クルトを求めている。
このディオニュソスでバラバラに切り刻んで食べてしまいたいほどに。
とにかく今はここを離れてどこか遠くに行かなきゃ。この沸き上がる破壊衝動を抑えるために。
私はクルトたちがいない隙を見計らって着の身着のままディオニュソスと一緒に部屋を出た。
一刻も早く遠くに行くために。
「どこに行くんだ。シャルロッテ」
まだ痛む体を引きずって、当てもなく千鳥足で歩いていると聞きなれた声に呼び止められる。
「クルト」
あんなひどい目に合わせた上にクラウゼ家の家宝であるディオニュソスを持ってどこかに消えようとしている私を見ても、いつもみたいに穏やかな表情で私を見てくれる。
本当ならもっと嫌っていいはずなのに。冷たく当たっていいはずなのに。
主君を殺しかけたら普通は処刑されてしかるべきだ。
なのにクルトは……優しい。優しすぎるよ。
クルトは昔からだれにでもそうだ。帝国諸侯ということを笠に着て威張ることもなく領民とも分け隔てなく家族のように接していた。それは貧乏貴族だからとか卑屈な理由からじゃない。私たちは本当に家族だった。
小さいころ私がどんなにいたずらしても笑って許してくれた。
きっとクルトは自分を殺しかけた私でさえ許してくれる。でも、だから。
「来ないでクルト」
クルトだけじゃない。家族やギュンター、フランツ、ペトラ、村のみんなのためにも。
「どうしてだ」
「私はここに居ちゃいけないの。早くここから離れないと。でないとクルトを……」
「悪かった」
クルトは私の言葉を遮るように深々と頭を下げた。
「ディオニュソスのことをよく調べなかったのも決闘さわぎになったのも俺が不注意だったせいだ。許してくれとは言わない。だが、誤らせてくれ。お前を危険にさらし、お前の心に大きな傷を負わせてしまった」
そんな。なんで。最初に謝らなくちゃいけなかったのは私なのに。
「ごめんなさい。私、私のせいで。ごめんなさい。ごめんなさい」
必死に頭を下げる。こんなことをしても許されるわけがない。許されていいはずがない。
「そんなに気にするな。怪我も良くなっているだろう。それにほら、前よりぴんぴんしてる」
クルトがガッツポーズをする。
確かにディオニュソスで斬ったはずなのに後遺症もなさそうだ。
「いかないでくれ。シャルロット。みんな、待っているぞ。もちろん俺も」
「ダメだよ。私はみんなが知っているような人間じゃない。戦士でもない。ただの人殺しよ」
「これから先、戦になったら人を殺すことだってあるだろう。それにまだシャルロッテは誰も殺しちゃいない」
「違うそうじゃない。そうじゃないよ。私はあの時、楽しんでいた。必要に迫られたからじゃなくて。仕方なくじゃなくて。ただ人を斬りたい。壊したい。そうやって楽しくなっちゃってそれで……」
呼吸が荒くなって、息ができなくなる。思い出すたびに狂暴な自分にぞっときて嫌な汗が全身から噴き出る。言葉が続かなくなる。
「大丈夫だ。お前はそんな狂ったやつじゃない」
クルトは私よりも私を信じている。
でも、嘘だ。私を慰めようと嘘をついている。私は確かに感じていた。体の奥底から湧き上がる途方もない高揚感を。
「どうしたそんなことが言えるの!」
私は思わずクルトを怒鳴りつけてしまう。
するとクルトは自分を指さして言った。
「証拠は俺だよ。俺は死んでない。本当にお前がディオニュソスに身をゆだねていたら俺は確実に死んでいた。鉄血令嬢様だってお手上げさ。それに俺が目を覚ました時、ベッドの横でワンワン泣いていたのは誰だ。お前だろう」
そうだ。私は泣いていた。クルトが起きたって聞いたら居てもたってもいられなくなってベッドから這い出して飛んでいった。
少しやせていたけどクルトがぴんぴんしてて、謝りたかったけど嬉しくて涙が止まらなかったんだ。
「シャルロッテは俺が最も信頼する家臣で大事な家族だ」
クルトは私を優しく抱きしめる。
「————っ!」
一緒に居たい。家臣でもいい家族でもいい。離れたくなんかない。
みんなとも。クルトとも。
頬を滴る雫が、灼熱の黒い欲望をなだめてくれる。
この瞬間だけは自分が破壊と殺戮を求める怪物ではなくシャルロッテという一人の人間だという確信を持つことができた。
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