二人ぼっち

ザキコ

前編

 金城くんが外界から逃げ出して一週間が経とうとしていた。まだ五月だと言うのに、太陽はすっかりてっぺんに登ってジリジリと地面を照らしている。今年度下ろしたての夏服にもどんどん汗が染み込んでいく。学校から金城くんの家までの上り坂、私は息を切らしながら自転車を漕いでいた。この坂を途中で自転車を降りずに登り切りたい。高校に入ってから体力の落ちた私の小さな目標だ。でも喉の渇きには抗えない。坂の半分ほどで観念して自転車を降りる。


 きっかけは些細なことだった。美人で有名な国語の白石先生が織田先生と結婚した。いわゆる職場結婚だった。GWが明けた月曜日、二人は朝礼台の上に赤い顔して立っていた。高らかに結婚の報告が宣言されると、全校生徒がわあっと歓声をあげた。私は金城くんを見ていた。伸びた前髪が揺れて、目が見えたり隠れたりした。金城くんは笑ってなかった。朝礼台の二人をまっすぐ見つめて、そして最後に少しうつむいた。きっかけはそんな些細なことだったんだ。その夜、金城くんから一言「明日から学校を休みます。でも、大丈夫だから気にしないで」とメッセージが来た。それから今日まで金城くんは学校を休み続けている。高二のクラスは赤松先生という仏頂面の物理の先生が担任だった。赤松先生は私に「金城の家までプリントを届けてくれるか」と言った。それで私は坂道を登っている。


 金城くんの家には頻繁に行っていた。金城くんの家は母子家庭で、お母さんは朝から晩まで働きに出ている。それでも冷蔵庫には一週間分の作り置きが常に入っているので、金城くんはお母さんの味をちゃんと知っている。アパートの鍵はいつもポストの手の届く位置に貼り付けてあって、私はたまに昼間の金城くんの近況を報告する係を命じられていた。だから勝手に上がっても不法侵入ではない。お母さんと私の信頼関係は結構厚いのだ。


  金城くんのアパートに着くといつものように自転車を止めて鍵をかけた。額から吹き出た汗をぬぐって汗臭くないかと少し心配する。気休めに制汗剤を首につけて外階段を駆け上がる。鍵はいつものポストの中。ドアを二回ノックしてから鍵を開ける。私だよって言う合図。金城くんが理解してるかは知らない。

「加藤です」

「赤松先生がね、プリントを渡してくれって」

「ドアの近くに置いとくからね」

アパートの部屋の構造は、リビングルームの右奥にお母さんの部屋と金城くんの部屋が並んである。一週間前から金城くんはお母さんにすら姿を見せないと言う。徹底的に外界を遮断している。

「もうすっかり暑いんだ。今年は夏になるのが早かったみたいで」

 「あ、麦茶もらっていいかな?飲みすぎないようにするね」

 大きな独り言を連ねながら、私はいつものように金城くんの部屋のドアの前、体育座りして背中をつける。耳を澄ますと、かすかに金城くんの音がする。彼はプラモデルを作るのが好きだ。多分今、小さな部品を夢中で組み合わせている。かちゃ、かちゃと小さく音がしていた。

「もう一週間になるよ」

「いつ学校くる?」

 かちゃ、かちゃ。まだ額からは汗が伝っている。私は小さな音に耳を澄まして目を瞑る。


 中学の頃、トランペットを吹いていた。吹奏楽部に所属はしていたけど、3年間馴染むことはなかった。同期の部員たちは私を腫れ物のように一定の距離をとっていたし、後輩はそれを察知して同じように距離をとった。先輩とは…あまり喋ったことがないから分からない。とにかく部室で吹くより体育館の裏、先生たちの喫煙所のような隅っこの場所でひたすら一人で吹くのが好きだった。ある日、いつものようにトランペットを吹いていた。そしたらそこに、金城くんがバスケットボールを持って現れた。私の横に立つと、塀に向かってバスケのシュート練習を始めた。お互いに一言も喋らず、ひたすらそれぞれ練習した。それは下校のチャイムまで続き、練習をやめたとき、初めて目があった。そこで、私たちは二人して吹き出し、しばらくお腹を抱えて笑った。私はどうしてバスケゴールで練習しないのかと聞いた。金城くんは音楽室から合奏が聞こえていたのに、なぜ参加しなかったのかと聞いた。そしてお互いに笑いながら「一人だね」と言った。私たちの一人ぼっちの練習は卒業まで続いた。


 高校に上がり、自然と金城くんとお弁当を食べるようになった。最上階の渡り廊下。横についた柵の間から足を出して二人でお弁当を食べる。ちょうど校舎の屋根で影になる位置なので、下から先生に怒られることはなかったし、生徒も滅多にこなかった。二人で食べるお昼ご飯は一年続いた。金城くんのお母さんのお弁当はいつも美味しそうで、つまみ食いを何度もさせてもらった。


そして、高二の五月。同じクラスになった私たちは今も二人だ。シーンとしたマンションの一室で、ドアを隔てて私たちは二人ぼっちになった。

「今日ね、赤松先生がペットの話をしてたんだけどね。ほら、あの人子猫を飼い始めたって。その子元気な子で、もう戸棚からひょいってフローリングまで飛び降りちゃうんだって」

「それが怖くて怖くて堪らないって。赤松先生も優しいところがあるんだね」

プラモデルがぶつかり合う音が止み、しばらくしてドアにごつんと何かが当たる音がかすかにした。

「猫はなんであんなに関節が柔らかいんだろうね」

 ドアの向こう側から懐かしい声がした。木の内部をぬって伝わるような気がする背中の温もり。

「なんでだろうね」

心がキュッと縮こまる感じがして苦しくなった。金城くんの声を聞いたのも、この日が一週間ぶりくらいだった。


5時限目の終わりに国語科へノートを届けに行った。一昨日、出すはずの課題を忘れてしまった。それで今日必ず持ってくるように言われていた。引き戸を開けると奥の席、白石先生は席を外していた。私は先生の机にノートを置いてそそくさと国語科を後にする。白石先生がいなくてホッとした自分がいた。引き戸を開ける瞬間、ドクドクと脈打った心臓がまだ少しうるさい。廊下を歩きながら、肩の力が急に抜けてふうっと息をつく。窓の外、遠くの空に不穏な雲が見える。放課後に一雨きそうだと思っていると

「加藤さん」

 高くて細い、綺麗な声が私を呼んだ。声のする方を見ると、白石先生だった。

「ノートだよね、遅くなってごめんね」

「あ、机に置いておきました」

「あら、そう。ありがとう」

「よろしくお願いします」

 白石先生が「はぁい」と微笑む。ドクドク。心臓がまた鼓動を早める。お互いに何も言わない、少しの静寂。

「そういえば」

早く教室に戻ろうと、頭を軽く下げかけたところで、白石先生はそう切り出した。

「金城くん、学校に来てないみたいだけど、元気?」

「え?」

ドクドク、ドクドク。

「なんで私に聞くんですか?」

「だって、金城くんいつも貴方を唯一の友達だって言ってたから」

 いつも、って言葉が妙に引っかかった。

「元気ですよ。少しお休みが長いだけで」

「そう、なら良かった」

「はい。だから先生は心配しなくていいです」

「…そう」

白石先生は少し俯いて小さく笑う。それから

「6時限目に遅れちゃダメよ」

 と言って、私の横を通り過ぎた。ふんわり香る、柔軟剤と香水の混ざったいい匂い。遠くの空で雷が鳴った。


 家に帰ると、私の布団がずぶ濡れになってリビングに引き上げられていた。

「今日は天気がいいから、天日干しをしてたのに」

 お母さんは悲しそうにそう呟いた。

「さっきすっかり曇っていたのに、その時に気付かなかったの?」

「だって撮り溜めてたドラマに夢中になっちゃって」

 キッチンからはカレーのスパイスの効いたいい匂いがしている。それでピンと来た。

「お父さんが帰ってくるんだ」

「大正解〜」

お父さんは今、東京で単身赴任をしていて、たまに有給をとって帰ってくる。お母さんはお父さんが帰ってくる日に決まってカレーを作った。お父さんの舌は幼児舌のままで、結局カレーが一番喜ぶのだと言う。鼻歌交じりにキッチンに立つお母さんは娘から見ていても可愛い。そのくせ、お父さんがいざ帰ってくると、旅行に連れてけだとか、ゴルフ用品買いすぎるなだとか、いっぱい文句を言うのだ。それもそれでお母さんなりに甘えているのかもしれないが、今、カレーを作りながら鼻歌を歌うお母さんを、お父さんはきっと一目見たいはずで。大人ってなんて素直じゃないんだろうと思う。そう言う私も素直じゃないのだけれど。素直じゃないから、金城くんに白石先生のことを聞けない。


 心にモヤモヤと引っかかって取れない、「いつも」と言う言葉。去年の秋頃、金城くんの元気ががくんと無くなったことがあった。何を聞いても金城くんはその理由を答えてくれなかったのだけど、推測するに、その頃に白石先生と何かあったのだと思う。その何か、を怖くてずっと聞けないでいる。想像はずっと前からついているのに聞けないでいる。それを聞いたら、きっと私は傷つくからだ。布団にドライヤーを当てながらそんなことをモヤモヤ考えていると、インターホンの音がしてお母さんがドアの方へ走っていく。ドアを開けると開口一番で「東京ばな奈買って来た?」と言う。お父さんは

「帰って来てすぐそれかよ〜」

とうなだれながらも紙袋を渡す。クスクス笑うお母さんを見て、すぐに笑顔になるお父さんを、私は見逃さなかった。いま2人は小声で何かを囁き合って、お母さんは照れた様子でお父さんの腕をぴしゃりと叩く。お父さんはまた

 「暴力反対」

と困ったふりをする。そして2人は目を合わせて微笑み合う。いつかこんな夫婦に私も誰かとなれるのだろうか。その相手は誰なのだろうか。お父さんがリビングに入ってきて

「璃子、勉強頑張ってるか?」

 と上機嫌に聞いてきた。

「まぁぼちぼちやってるよ」

「ぼちぼちなんてもんじゃないわよ〜璃子ちゃん優秀なんだから。あ!お父さ

ん成績表見る?」

続けてお母さんが東京ばな奈を抱きしめてリビングへ。

「大した事ないからいいよ〜」

 お母さんがリビング横の引き出しに走り成績表を探し出した。いまの私に成績なんてどうでもよくて、2人に言えない悩みがあるのだ。言えたらどんなに楽だろうと思うけど、思春期ってやつは厄介で。どうしてもこういう悩みは言えない。私は1人で少しセンチメンタルになって、濡れた布団に触れてみる。まだまだじんわり濡れている。手に持ったドライヤーを強風に切り替えた。


「加藤さん」

朝はどうしても眠くて苦手だ。それに加えて、一時限目が古文だともっと最悪。うつらうつらとしていたら、隣の廣田杏果に声をかけられた。

「え?」

私は慌てて口元を抑える。良かった、今日はよだれは出てなかった。

「ごめん、ここって下二段活用?」

「えっと、うん。そうだけど」

「うわ!ノート分かりやすい!字もすごい綺麗じゃん」

「そんなことないでしょ」

「古文ってさ、活用も書き込むし、現代語訳も書き込むし。ノート作るのほんと難しいよね。なのに加藤さんのノートはめっちゃ見やすい!」

 廣田さんは少し声が大きい。授業中だと言うのに普通のボリュームで喋るから、怒られないかドキドキする。恐る恐る黒板の前の飯田先生を見ると、どうやら自分の喋りに夢中でこちらにはまだ気づいてない様子。一安心。

 「昼休みに少しノート見せてくれない?私さ、古文成績悪くて次の中間ヘマできないんだよ〜」

 「いいけど…」

「ほんと?良かった〜ありがとう!!」

 「そこ、私語バッチリ聞こえてるぞ!」

 ハッと目線を上げると飯田先生はいつの間にかこちらを睨んでいた。

「すいませーん!」

廣田さんは笑顔で謝る。それにクラスメイトがちらほらと笑った。近くの席、生島さんが小声で「杏果声デカすぎ」と囁く。廣田さんはそれにまた大きめな声で「うるさい」と返す。それでまた飯田先生が怪訝な顔で振り返り、生島さんがケラケラと笑う。廣田さんはクラスのムードメーカー的存在で、いつも明るく、誰とでも仲がいい。おとなしい私にもこうやって境なく話しかけてくる。それでいて性格もいいので、欠点がない。あ、でも、唯一あった。声が通り過ぎることだ。

「怒られちゃった」

と変顔を披露してくる廣田さんに、私は眠気を忘れて吹き出した。


 昼休み、廣田さんとお弁当を食べた。いつもは金城くんのいない渡り廊下の特別だった場所で、一人で食べているのだけど、今日ばかりはノートを見せるために教室にとどまった。廣田さんのお弁当を見るのは初めてだったけど、彩りが良くて廣田さんらしいお弁当だった。

「ほんとにわかりやすい。初めて源氏物語を理解できてる気がする」

廣田さんは目を輝かせてそう言った。

「言い過ぎだよ」

「いや、加藤さん、このノートはお金出して買えるレベル」

 すぐ近く、廣田さんがいつもご飯を食べている生島さんと高田さんがこちらの様子を伺っている。二人からすると、おとなしい私とお弁当を食べる廣田さんが心配なのだろう。チラチラ私の方を見ては何かこそこそ話していて、居心地が悪い。

「…ノート持ってっていいから、いつもの二人とお弁当食べれば?」

「え?借りちゃっていいの?」

廣田さんがやっと顔を上げて二人の方を見た。

「てか、アッコたちがこっち来なよ!」

 意外な言葉が飛び出して少しうろたえる。生島さんたちも目を丸くしてこちらを見ている。

「ほら、椅子持って来なよ」

 少し間が空いて、二人はすんなり私の前に座る。

「加藤さんと喋ったことないよね〜」

「そうだよね、だからどうしようかと思っちゃって」

「生島敦子と高田莉奈ね、で、加藤さんは…下の名前なんだっけ?」

「あ、璃子です」

「璃子ちゃんって言うんだ。莉奈と一字違いじゃん」

「え、『り』の漢字違うよね?杏果適当すぎ」

「ひらがなにしたら一字違いじゃん」

「てか、璃子ちゃんのお弁当美味しそう〜」

「そう?」

「杏果のなんかね、彩りはいいけどほぼ冷凍食品なんだよ」

「ちょっと!失礼な!」

三人の話す内容はコロコロ変わっていき、私は頷いたり、なんとか相槌を入れるのに必死になった。楽しくて笑うことはあったけど、三人に私はどう写ってるか、そればかり気になって疲れてしまった。


 放課後、グラウンドを歩いていると後ろから廣田さんが背中をわっと押して脅かして来た。私は驚いて「ひゃ」っと声をあげる。

「あ、ごめん。不意打ちすぎた?」

「ううん、どうしたの?」

「いやさ、お昼、なんだか璃子ちゃん楽しくなさそうだったから、謝ろうと思って。無理やり三人の中に入れちゃってごめんね。気遣わせたよね?」

「え…っと」

図星だった。こんなことをわざわざ言いに来てくれた、その事実が胸に響く。

「二人はさ、璃子ちゃんとまたお弁当食べたいって言ってるんだけど、璃子ちゃんが困るようなら明日から三人に戻ろうかと思ったんだよね。ほら、人によって一人が好きとか、色々あるかなってさ。私、気になっちゃって」

廣田さんは真っ直ぐで素直な人だった。遠く、サッカーゴールの向こう、オレンジ色の夕日が沈みかけていて眩しかった。廣田さんの表情は逆光で陰っていて、はっきりとは見えない。でも、私を見つめる眼差しは痛いほどに刺さってきた。夕日の柔らかな光が私の心に差し込む。いつからか築き上げてきた氷山の一角が溶け出す感覚がした。私は何も言えなくなってしばらく俯く。暫くして廣田さんは決まりが悪そうに「あー」と言った。

「やっぱ、嫌か。ごめんね!あ、ノートありがとね!」

そう言って、廣田さんがくるりと背を向ける。心臓が高鳴って、脳が私に「早く言え!」と叫ぶように指示を送った。

「嫌じゃない!楽しかった!」

廣田さんが立ち止まり、こちらを振り返る。

「明日も、一緒にお弁当食べたいです」

「なんだ!そっか!早く言ってよ、もう〜!」

廣田さんはそう言って私にぎゅっと抱きついた。お母さん以外の人に抱きつかれるのは初めてで私の体は硬直する。廣田さんの体はほんのりとあったかく、肌同士接着した面がじんわりと汗ばんだ。なんとも言えない幸せの感覚に包まれていると、グイッと体を引き剥がされた。

「じゃあ、また明日ね!」

 廣田さんはそう言って手を振ると、校舎に向かって走っていく。体が熱い。廣田さんの体は柔らかくて、いい匂いがした。そして私はすぐに、金城くんに会いに行こう、このことを話そう、そう思った。

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