第3話 犬の誘惑にあらがう


 夕翔の家、寝室。


 椅子に座る夕翔の膝上で、犬の花奈は腹を上にして寝転がっていた。


「ゆうちゃん、もっと撫でて〜」


 同棲権利を獲得して安心しきった花奈は、これ見よがしに夕翔に甘える。


 ——調子に乗るってわかってるけど……可愛くて触りたくなる……。あ〜この感触〜。撫でた時に短い足が『おばけの手』みたいになるのが可愛いんだよな〜。


 夕翔は誘惑に負けて花奈の腹を優しく撫でまくる。

 花奈はあまりの気持ち良さに目をとろーんとさせていた。


「そういえば、この世界で俺以外の目的はないのか?」

「うーん……調べものとか……かな」


 夕翔は撫でていた手を止め、訝しげな表情を浮かべる。


「怪しいことじゃないよな?」

「心配しないで〜」


 花奈は止まった夕翔の手を湿った鼻で突き、なでなでの再開を催促した。

 夕翔は反射的に撫で回しを再開してしまう。


「誤魔化されてる気がする……」

「大丈夫だって。そうだ! 寝る場所だけど、ゆうちゃんの部屋で一緒に——」

「——客間を使うように」


 花奈はつぶらな瞳を潤ませる。


「犬の状態だったら、一緒に寝てくれる?」


 ——困った時に可愛い顔をするのは反則だろ……。


「……ダメ」


 昔、犬と一緒に寝ていた夕翔にとって魅力的な申し出だったが、もちろん禁止した。

 付き合ってもいない少女と一緒に寝るなんてあり得ない、と夕翔は考えていた。


「せめて隣の部屋は? できるだけ近い場所で寝た方がゆうちゃんを感じられていいんだけどなー」


 夕翔は顔を強張らせた。


「隣の部屋はダメだ……」


 花奈は夕翔の声がわずかに震えていることに気づく。


「……どうしたの?」

「その部屋は、死んだ両親の部屋だから……誰にも触ってほしくないんだ……」


 花奈は何と言っていいかわからず、口をつぐんだ。


 夕翔の身体中に一気に悲しみが広がり、目は徐々に虚ろになっていった——。


 遡ること5年前。

 当時の夕翔は大学1年で、初めての夏休みを迎えていた。

 久しぶりに両親、飼い犬と一緒に山道ドライブへ出かけることに。

 しかしその道中、大雨が降り……。

 対向車が山道カーブを曲がりきれず、父親が運転する車に正面衝突してしまった。

 奇跡的に助かったのは、後部座席に座っていた夕翔だけだった。

 今でも鮮明に残る衝撃音。

 5年の歳月が経っても夕翔の心の傷はいまだに癒えないまま。

 このことが原因で、雨の日はいつも夕翔を憂鬱にさせていた。




 花奈は座り直し、短い右前足を夕翔の左手に添えた。


「——ごめんね……」


 花奈の声で我に返った夕翔は、傷ついた表情で無理やり口角を上げる。


「気にしなくていいよ。こんな話を聞かされたら、誰でも気まずくなるのはわかってる。よしっ、気分転換に朝ごはん食べないか?」

「……うん」


 夕翔は花奈を抱いて1階へ移動した。





 キッチン。


「しまった……」


 夕翔は冷蔵庫の扉をあけて肩を落とす。

 食べられる食材は魚肉ソーセージ1本と栄養ゼリーだけだった。


 ——魚肉ソーセージだけって可哀想だよな……。


「ドッグフード……食べたことある?」

「あるよ。ここに来るまでに何度か優しい人にもらった。薄味だけど、嫌いじゃないよ」

「悪いけど、朝食は魚肉とそれを食べてもらおうかな。リビングで待ってて」

「はーい」


 花奈は短い歩幅でちょこちょこ歩き、リビングのカーペットが敷かれた場所へ。


 夕翔は手で小さく分けた魚肉ソーセージを皿の端に置き、水の入った皿を用意。

 栄養ゼリーを脇に抱え、皿を両手に持って花奈の元へ向かう。


「ふっ」


 花奈が行儀よくおすわりして待っていたので、おかしくなって夕翔は吹き出す。


 ——躾がしっかりされてる犬と変わりないな……。


 気落ちしていた夕翔だったが、花奈の愛らしさに少し救われる。


「これくらいでいいか?」


 夕翔は花奈の近くのフローリングに皿を置き、そこへドッグフードを流し込む。


「もう少し。あと、混ぜてくれる?」

「はいはい」


 夕翔は手で魚肉ソーセージとドッグフードを混ぜる。


「ありがとう。あと、袋の中のドッグフードもついでに手で混ぜて」

「え? ドッグフードが汚れるぞ?」

「お願〜い」

「はいはい……」


 ——すぐ腐りそう……。


 夕翔は意味がわからないまま、素手で袋の中のドッグフードを混ぜた。


「いただきま〜す」


 腹をすかせていた花奈は、勢いよく食べ始めた。

 夕翔はそれを見て微笑む。


 ——やっぱり可愛いな。


 ドッグフードを噛むカリカリ音が夕翔の心を和ませる。


 夕翔は手を洗った後、花奈の横に座ってゼリーを吸い始めた。


「この世界には、犬の状態で来たのか?」

「最初は人型だよ。でも、妖力を使いすぎて犬型になっちゃって」

「妖力はどうやって回復するんだ?」

「一番いいのは、ゆうちゃんが作る料理かな」

「え? 俺限定なの?」

「うん。こっちの世界には妖力がほぼないから、それを保有する人が触ったりしたものを食べると少し吸収できるの」

「まさか……それが狙いで俺に近づいたのか?」


 夕翔は眉間にしわを寄せ、花奈を睨みつける。

 花奈は慌てて垂れた耳を振り回しながら顔を左右に振る。


「違うよ。私は純粋にゆうちゃんが好きなの。18年の想いは覆らないから。妖力回復は二の次だけど、人型じゃないとゆうちゃんにアピールできないから仕方なくこうやって……」

「もしかして、一緒に寝ることも回復方法の1つなのか?」

「……そうです」


 花奈は目を泳がせ、ためらいがちに言った。

 夕翔はそれを聞いてふと思いつく。


 ——妖力がないと犬のままってことだよな……。なら、回復させないほうが余計なことに巻き込まれないんじゃ……?


「あ、ゆうちゃん……。もしかして、私の妖力回復を阻止しよう、とか考えてないよね?」

「……少し」


 夕翔はわざと満面の笑みを浮かべる。


「ちょっと!? それは虐待だよ!」

「なっ!?」


 間違いではない指摘に夕翔は怯む。 


「まあ、俺が有利だってことがわかったから、それでいいか……」

「それは脅しだよね……。ゆうちゃんは小さい頃、もっと優しかったのに……」


 花奈は不満を漏らした。


「俺は成長して冷酷な男になったんだよ。諦めたら?」

「諦めない!」


 ふてくされた花奈は、ドッグフードをがつがつ食べ始める。


 ——はあ……俺のどこがいいんだ……?


「気になったんだけど、花奈は何歳?」

「25歳だよ」


 夕翔は目を丸くする。


「え? あの外見は、もっと下だと思うんだけど……」


 人型の花奈は15歳くらいの容姿だったので、夕翔が驚くのも無理はない。


「もう少し大人の方がよかった?」


 花奈は食い入るように見つめる。


「まあ、せめて20歳くらいがいいかな。警察の厄介になりたくないので」

「そういう返答は期待してない……」


 恋のかけらも感じられない夕翔の発言に花奈はうなだれる。


「人型が本当の姿だよな?」

「うん。基本は人型で行動するよ。妖力が減った時とかは犬になるかな」

「複雑な体だな……」

「私の世界では普通だけどね」


 夕翔は理解しがたい内容に苦笑する。


「この世界でそれは異常だから、絶対に俺以外の前で変身するなよ? あと、犬の状態で外に出る時、俺に話しかけてこないこと。こっちの世界の犬は言葉を話せないんだから」

「はいはーい」


 すでにゼリーを吸い終わっていた夕翔は、花奈が美味しそうに食べる様子を見ているうちに空腹を感じる。


「花奈、ちょっと食べ物を買ってくるから、家で待っててくれないか?」

「いいよー」

「この部屋で待機な。絶対に家から出るなよ?」

「はーい。あ、もう少しドッグフード食べていい?」

「足りない?」

「うん。さっき入れてくれた量と同じくらいで」

「はいはい」


 夕翔は食べる量に圧倒されながら、ドッグフードを皿に入れた。


「じゃあ、着替えてくるから」

「うん」


 夕翔は急いで着替えを済ませ、リビングの扉から顔を出す。


「行ってくる」

「はーい」


 花奈は口をもぐもぐさせながら玄関まで見送る。


「いい子にしてるんだぞ?」

「うん。気をつけてねー」


 夕翔は玄関扉を閉めた。

 鍵のかかる音が廊下に響き、夕翔の気配が消える。


「さてっと……」


 花奈はその場で人の姿へ変身した。

 人間の25歳同等の容姿で、グラマラスな体型だ。

 花奈は服を着ないままリビングに戻ると、床に置かれた皿を持ち上げ、残りのドッグフードを一気に口へ流し込む。


「妖力回復! 急いで家に結界を張らないと!」

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