20.あれは、俺だ。
何でここに居るのだろう。
桜の樹は依然として目の前に在る。あの大きな木だ。腕を広げて、花びらを降らし、光を…… 光……
光はそこには無い!
慌てて彼は辺りを見回した。ここはあのドームの中ではない!
だが足下には、さわさわと動く花びら。微かにそれもまた、光を放っている。足下が浮き上がって見える。
ああそうか。これは合成花だ。
しっとりとした感触。時々それがくるくると足下にまつわりつく。
踏みつけたりしたら、何やら後味が悪そうなので、できれば避けてくれ、と内心思いながら、彼は一歩を踏み出した。
夢の続きだ、と彼は確信した。だとしたら。
さわさわと、足下で花びらが動く。
ああ、やっぱり。
そこにはやはり、誰かが泣いていた。
膝を落とし、花びらの降りしきる中、その花びらが積もって山になっているものにすがりつき腕を広げ、声も立てずに…… だけど泣いていた。
見覚えのある細い背、見覚えのあるそのすんなりとした腕。
何でお前が、泣いているんだ?
何がお前を泣かせているんだ?
彼は内心問いかける。
泣く代わりに笑うことしかできなかった程のお前を?
彼は一歩一歩近づく。そして泣く相手の背に、言葉を投げかける。
「どうして泣いているんだ?」
「死んだんだ」
相手はそれでも、乾いた声を彼に投げる。だが喉に何かが絡まっているような音にも感じられる。朱明は続けて問いかける。
「それはお前の大切な何かか?」
「わからない」
「わからない何かが死んで、そんなに哀しいのか?」
そんなところは、一度としてその見覚えのある姿に、彼は見たことがない。
「哀しいのかどうかさえ、俺には判らない」
「判らない?」
相手はゆっくりと身体を起こす。だが振り向きはしない。そして腕をだらりと下げたまま、抑揚の無い声が、彼に向かって再び飛ぶ。
「俺には、何もない」
「ハル……」
朱明はその時ようやく、その相手の名前を呼んだ。無論見た時から、その姿が何処の誰であるかなど、判っていた。だが。
「ずっと忘れていたんだ。それが永遠なんかじゃないことを。俺はずっとずっと、それがこの手の中にあると思っていた。安心していた。忘れたかった。だから忘れていた。俺を生かすために、俺の身体がそうさせていた」
身体が。HLMが、そうさせていたというんだろうか。
「……でも先送りはあくまで先送りだ」
ゆっくりと、ハルは振り向く。その目は、いつもの相棒のものとは違っていた。
いや違う。
だが彼はとりあえずその疑問はかみ殺した。そのかわり口から出たのは、別の疑問だった。
「そこに、死んでいるのは、誰なんだ?」
「判らない?」
ハルは…… ハルの姿をしたものは、あでやかに笑った。
身体をゆっくりとこちらへ向ける。次第に、その埋まっているものの姿が彼の目にも明らかになってくる。
あれは、俺だ。
「そうだよお前だよ」
その口調に、彼は聞き覚えがあった。
そうか。
ずっと、あんたが呼んでいたんだな。
*
「……何やってんだよ!」
ぱしん、と頭をはたかれて彼は我に返った。
「貧血かよ情けない! 歳だよお前!」
妙に相棒の声が、引きつっているのに彼は気付いた。
「……俺は、気を失っていたのか?」
「んなことも気付かないのかよ!」
普通自分が気を失っていたこと、というのは気付かないものだと思う、と彼は内心つぶやく。
だが何やら相棒の様子は、そんな冗談は通じそうにはなかった。
「藍ちゃん、こいつ気がついたよ」
「あ、よかった…… 朱明気付いたんなら、ちょっとこっち手伝ってくれ」
藍地が呼ぶ。やはり気を失ったらしいユエを助け起こしていた。
さすがに相棒が朱明にしたのとは違って、女性相手に頭をはたくということはしないので、なかなか正気には戻らないらしい。
何ごとが起こったんだ、と朱明は髪をかき上げながら辺りを見回した。
確かあの時、シファはあの白いパテ―――「レナ202号」をべったりと桜の樹に塗りつけて、フラッシュを―――
彼はそこまで思い出した時、はっとして指の間に見える光景に目を見張った。
樹が無い。
いや違う。樹が消えている。
「……何……?」
「……嫌になる……」
うめくように、ハルはつぶやく。え、と朱明は目を伏せる相棒を見た。苦しそうに、微かに眉が寄せられている。
「……気がつけばよかった」
シファなら、あのカメラを使えることに。その「武器」に関するデータを引き出すことは、彼女にとってはたやすいことだったろう。
ひどく限定した部分だけ破壊させることができるのだ。光とその反応のタイムラグ。だから逆に正確に。
部屋の中心に、何やら粉状になったものが溜まっていた。中心が、その純粋な、粉だけ、に彼には見えた。それが次第に外に向かうにつれ、花びらが少しづつ混じってくる。
そしてその「粉」は、衝撃とともにやや裂けた地下へ、さらさらと次第に流れ込んでいる。
そういえば。朱明は思い出す。あの花屋から出た時、自分はパテを回収した記憶はなかった。
あの時から、そのつもりだったのか。
朱明の中に、苦いものがよぎった。
「……おい朱明!」
藍地の声が聞こえる。彼はまだ重く感じられる身体を無理矢理立ち上がらせた。
朱明は近くに転がっている桜の枝を見つけた。
それが、ぴく、と動いた。拾い上げる。
……そうか。
「……おい」
のっそりと近づく朱明に、藍地は早くしろ、と目で訴える。
だがその動きは藍地の予想したものとは違っていた。彼は藍地の手からユエの肩を奪い取ると、大きく揺さぶった。
女の目が開く。彼はそこにぬっと桜の枝を突き出した。ひ、と女は息を呑んだ。
彼女の目の前で、桜の枝は、花は、ふるふると動いている。
ユエは突きつけられたそれを、思い切り寄り目になって見つめる。いや、見ずにはいられない、という様子だった。
朱明は自分の中の不快感を、これ幸いと露骨に顔に表すと、やや声を作る。
「とっとと起きて、さっさとここの合成花を持っていけよ。シファがあんたにくれたんだ。ほら」
そしてさわさわとと桜の枝を彼女の鼻先にすりつけた。そしてそれからぽんと手を放す。枝は、彼女のひざの上に落ちた。
「おい朱明」
藍地は声をかける。だが彼も、最近はまず見なかった苦い顔になっている友人にかける言葉は見つからなかった。ほい、とハルはポケットを探る相棒にライターを放る。サンキュ、と朱明は器用に受け取った。
ハルはぼんやりと、さらさらと粉が流れていく様を眺めている。そして朱明は煙草を一本くわえると、まずそうに一息吸い込んだ。
「……おい藍」
不意に呼ばれた自分の名前に、藍地はやや驚く。返答を待たずに朱明は続けた。
「まだ今だったら、地球に行くことはできるか?」
何だ唐突に、と藍地は思った。だが彼は律儀だったので、なかなか腰が抜けて動けないユエを助けおこしながらも、やや頭をひねる。
「『旅行』としてならまだ大して規制も多くはない筈だけど」
「なるほどね」
そして相棒のほうをちら、と見る。
「ちょっと俺、地球へ行ってくるわ」
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