17.そこには匂いというものがないのだ。

 やがて車が止まった。

 シファは遺体の入った箱を横抱きにし、小型ドームの入り口に立つと、電子ロックの複雑なキーワードを入力した。半透明の扉はすう、と音も無く開く。

 一つ、二つと彼女は扉を開けていく。そしてその後ろに彼ら三人は続いた。そして三つ目の扉が開いた時、ハルは声を上げた。


「すご……」


 そこは花のジャングルだった。

 季節や種類、そんなものを一切無視した、とりどりの花の姿で満ちあふれていた。見た瞬間、ハルはくるりと後ろを向いた。朱明は慌てて声をかける。


「おい何処へ……」

「こんなとんでもない風景、滅多に見れない。ちょっと待って、カメラ……」


 やれやれ、と朱明は苦笑しながらため息をついた。だが戻ってきたハルを見て、ぴしゃりと自分の額を叩き、呆れた顔になる。


「……カメラって、それかよ……」

「いいじゃない。これだってカメラの役割はするから。普通のカメラが見つからなかったんだよっ」


 藍地はその様子をくくく、と含み笑いで眺める。


「相変わらずだねハル」

「綺麗なもんは、綺麗だからな。逃せないって」


 綺麗ね、と朱明は内心その言葉を繰り返す。確かに綺麗なのだ。滅多にない光景だ。

 何せ、温帯初夏の気温の中で、ひまわりとハイビスカスとチューリップとマツユキソウとすずらんが、一緒に咲いている。こんな冗談はないだろう。

 それは、取りも直さず、それが本物ではないことを物語っているのだ。


「シファこれが、君たちの合成花…… なのかい?」


 藍地はこの鮮やかな光景にめまいを起こしそうな自分を感じながらも、シファに訊ねる。彼女はうなづく。


「でもここはまだ、入り口です」


 ついてきて下さい、と彼女は再び歩き出した。カメラをいじっていた二人は、その急な動きに、危うくフィルムカードを落としそうになった。

 鮮やかな花の次は、緑だった。熱帯の、濃い色の、これでもかと存在を主張する葉や蔓が所狭しと生い茂る部屋だった。

 その次は、いきなり秋だった。小型の銀杏の木や楓の木が、整然と並んでいる。葉が所々落ちている。……だが、それは、決して通路にまで落ちることはない。

 朱明はそこまで来た時、この中に漂う違和感の正体がやっと判った。これだけのものがありながら、そこには匂いというものがないのだ。あの店に入った時と同じだった。

 生花の温室へ入った時の、あの強烈に濃厚な、だけど生気というものをみなぎらせた匂いがないのだ。デザイアの言葉を借りれば、「生花の持つ生殖の欲望」そのものなのだから、そこに無いのは当然なのだろう。彼らはその必要はない。

 そして彼はもう一つのことに気付く。朱明は少しばかり立ち止まり、空を仰ぐ。


「……だんだん天井が高くなっているな」

「あ、お前もそう思った?」


 ハルもまた立ち止まる。

 シファはそんな二人に構わず、足を進める。その様子を見れば、中心に目的のものがあるというのが判る。藍地はちら、と何か物言いたげな瞳を二人に向ける。仕方ないなあ、と再び二人は足を動かした。

そして最後の扉が開かれた。

 あ、とハルの口から声が漏れた。


「これは……」


 朱明は次に言う言葉を失った。そこは光に満ちていた。そのドームの中で、一番空が高い場所。そしてそこには。


「……桜だ……」


 巨大な桜の樹が、そこにはあった。満開の花を、大きく腕を広げて、いっぱいに。

 朱明はくらり、と一瞬よろける。何やってんだよ、と相棒は慌てて支える。大丈夫、と彼は答えたが、内心は動揺していた。

 同じだ、と思った。あの夢の中と。

 夜と昼の差はある。あの夢の中は、夜だった。

 闇の中に、桜の樹が、それ自体がぼんやりと発光しているように見えた。

 今ここに、目の前にあるものは光の中に立っているが、その腕を広げた様は、あの夢のものと、驚く程良く似ていた。

 そして花びらが降り注いでいる。樹を中心として、うすくれないの花びらの輪が、その場にゆるりと広がっていた。

 シファはそんな彼の動揺には気付いたのか気付かないのか、そのまま足をその根本へと向けていく。

 だがその時彼らは目を疑った。

 ざ、と音がしたような気がした。

 ―――いや実際には音はしなかったのかもしれない。あるいはそれは自分の中の血が引く音だったのかもしれない―――

 花びらが、一斉に、道を開けた。

 シファはその中を、悠々と進んでいく。どうしたのですか、と何気なく彼らに問う。問われた彼らは、物を言うこともできずに立ちすくんでいた。判っていた。合成花は動くのだ。それも、ここにあるのは、フォロウではない、デザイアの花なのだ。


「……ここ、なの?」


 そしてようやく、藍地は彼女に向かって言う。

 更に数歩進んで、ゆっくりとかがみ込みながら、彼女ははい、とつぶやく。彼女のマスターの入った大きな箱をそっと置き、足下にある小さな蓋を開ける。

 そしてうぃ…… んと、低い音が響いた。

 地面がゆっくりと開く。

 機械の響きを聞いてか聞かずか、花びらがやや騒ぎ出す。ざわざわ、と細かな音が、そことも何処とも知れず、うごめき出す。


「静かにして…… マスターが戻ってきたのよ……」


 シファはそう言いながら、箱を再び抱え込むと、それを開いた地面の中へそのまま納めようとして…… 一瞬思いとどまる。

 どうしたのだろう、と藍地は思い、動き出した花びらに、幾分かの寒気を感じながらも、彼女に少しだけ近づいた。

 彼女は箱を抱きしめるようにして、ふたを少しだけ開けていた。


「……シファ……?」


 その目は、箱の中をじっと見つめている。他の何も目に入らないようだった。ただじっと、そこから目が離せないかのようだった。

 そして、その目から、大粒の涙が。

 その様子を目にしながら、朱明は再びめまいがする自分に気付いていた。


 同じなのか? あの夢と―――


 だが違う、とも自分の中の何かが告げている。

 あの中で、夜の闇の中で、桜の樹の下で、泣いていたのは……

 息を呑む。

 シファはしばらくそのまま、ぽろぽろと落ちる涙をぬぐうこともせず、じっと箱の中を見つめている。

 そして花びら達は、そんな彼女の上にくるくると身体をひらめかすと、ゆっくりと地面に下りていく。

 それだけではない。一度下りたはずの花びらまでが、彼女と彼女のマスターを取り囲み、小さな蝶のようにひらひらと、その辺りを舞い始めた。


 何って光景だ。


 藍地は息を呑んだ。

 やがてそれはそのすぐ回りだけではなく、ゆるゆると、近くの花びら達にも伝わったらしく、ほんの微かなざわざわという音を立てて、それもまた、その身体をひらめかせた。

 朱明は思わずその場に膝をついていた。相棒のどうした、という声すら、何か遠くに聞こえてくるかのようだった。


 何だったのだろう? この感覚は。


 朱明はひどく嫌なことを、思い出しそうな自分に気付く。思い出したくない。考えたくない。そうだ確かに、俺はそのことに。

 と、その時、相棒が思い切り強く、彼の腕を引っ張った。

 相棒は見かけ以上の力を持っている。腕がちぎれるのではないかと思うくらいの勢いで、朱明は無理矢理立ち上がらされると、間近に顔を近づけられる。

 は、と彼は正気に戻った。相棒がこんなことをする時は。


「非常事態だ」


 羽毛のように乾いた軽い声が、低く告げる。


「何」

「……」


 ハルは顔を動かすこともせず、大きな瞳に、ただ視線だけを動かした。


 入り口?


 遠くで悲鳴が、聞こえた。

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